黒田日銀総裁は5月15日の講演6月23日の講演において,日本のフィリップス曲線を根拠に,2013年4月に導入した量的・質的金融緩和が所期の効果をあげている,と語っている。
 黒田総裁の使用したフィリップス曲線は,

インフレ率=予想インフレ率+k×GDPギャップ

という形をしている。kは定数であり,GDPギャップは現実のGDPの潜在GDPからの乖離率である。
 黒田総裁は,GDPギャップは改善しているが,現実のインフレ率の上昇はフィリップス曲線が想定する以上のものになっており,それは期待インフレ率の上昇だと見ている。しかし,実際のデータを注意深く見ると,金融政策とは直接関係をもたない,他の要因がもっと影響が大きいことがわかる。

 まず,消費者物価指数(CPI)の最近の動きを見てみよう。ただし,4月以降の消費税増税とは切り離し,3月までの動きにしぼる。
 
消費者物価上昇率

 CPI(総合),コアCPI(生鮮食品除く総合),コアコアCPI(食料(酒類)及びエネルギー除く総合。国際基準のコアCPI)の前年同月比は,3種類ともに異次元緩和導入の直前から上昇傾向にある。これだけを見て「異次元緩和が成功した」というのは短絡的すぎるし,黒田総裁もさすがにそんなことは言わない。最近の物価上昇には輸入物価の影響,エネルギー価格の上昇,耐久消費財価格の下げ止まり,という金融緩和とは関係ない要因が関わっているからだ。それ以外のものとして,GDPギャップの改善による物価上昇,異次元緩和がねらいとする予想インフレ率の上昇による物価上昇がどれだけ貢献しているか,ということを見極めなければいけない。
 日銀が物価安定目標の指標とするのはコアCPIであるが,黒田総裁はコアコアCPIを講演で使用しており,注意深くエネルギー価格上昇の影響を除外しようとしている。しかし,コアコアCPIの対象品目には輸入品や耐久消費財も含まれ,さらに中間投入にも輸入品やエネルギーも含まれることもあるので,コアコアCPIの上昇はGDPギャップの改善と予想インフレ率の上昇だけで起こっているわけではない。さらに注意深いデータの検討が必要だ。
 物価指数への品目別の寄与度を使って,どの要因の影響が大きかったかを見てみよう。ある品目の寄与度とは,その品目の物価だけが変化した場合の物価指数の変化率を表す。すべての品目の寄与度を合計すると,物価指数の変化率になる。いま関心をもつのはデフレからインフレへの変化なので,物価上昇率への寄与度ではなく,物価上昇率の変化への寄与度(2013年度と2014年度の寄与度差で,下の図でオレンジで示した箇所)を見てみたい。
 
消費者物価・寄与度

 CPIは2012年3月の前年比-0.9%から2013年3月の前年比で1.6%まで,2.5ポイント増加した。このうち,食料(酒類除く)は1.22ポイントと,インフレ率の上昇に半分近く寄与していることになる。エネルギーは0.36ポイント,耐久消費財は0.41ポイントとなっている。それら以外の要因(輸入価格の上昇,GDPギャップの改善,予想インフレ率の上昇)によるインフレ率の上昇分は0.56ポイントとなる。このように品目ごとの寄与度に着目した分析は,少し手法は違うが『日本経済2013-2014』第2章第1節でもとられている。
 コアコアCPIには耐久消費財の影響が含まれているので,耐久消費財をそこからのぞいたCPIを計算してみたところ,2012年3月の前年比は-0.3%とデフレの度合いは弱まり,2013年3月の前年比は0.6%となり,コアコアCPIの変化(-0.8%から0.7%)よりも若干小さくなった(公表されているコアコアCPIと耐久消費財の指数から筆者が計算したので,丸めの誤差が混入している可能性がある)。しかし,残された品目のなかにも円安やエネルギー価格の影響で価格が上がっているものがあり,GDPギャップの改善と予想インフレ率の高まりだけを抽出することが難しい。
 消費者指数の構成品目を分類することで要因分解する方法には残念ながら限界がある。そこで,集計された変数の関係から要因を分解する方向に進んでみよう。

『経済財政白書2014』(内閣府)第2章第1節では,2000年以降の四半期データを用いた推定式(変数のラグ関係は捨象しているので,正確な式は同書94頁を参照されたい)

 コアCPI前年比=0.035輸入物価指数前年比+0.14GDPギャップ+0.50予想物価上昇率

をもとにして,要因分解をおこなっている(第2-1-5図,94頁)。上述した,品目を分類する方法に比べれば,集計時系列データによる回帰分析は大雑把に見えることは致し方ない。推定誤差も考慮したいところだが,あいにく係数の標準誤差が示されていないので,点推定の結果の評価には注意しなければいけない。
 定量的な評価が示されているのは,この記事の対象範囲を外れているが「2014年4-5月期の前年比1.4%のうち、輸入物価による直接的な押上げ効果が0.1%ポイント、予想物価要因が0.9%寄与している」(92頁)の箇所である。GDPギャップが縮小すると,式の定義から,GDPギャップの寄与度が小さくなって予想物価上昇率の寄与度が全体のなかで大きくなるので,これは当たり前のことである。こういうことをわざわざ書いているのは,異次元緩和が余計な記述を呼び込んでしまった感がある。
 また,この第2-1-5図の冒頭には「予想物価上昇率の上昇が消費者物価の上昇に寄与し、GDPギャップのマイナス寄与は着実に縮小」と書かれており,異次元緩和の成功を示したいようにも見えるが,分析結果はそのことを示し切れていない。
 予想インフレ率(この分析で構成された変数)は,2008年4-6月期と2011年9-12月期にも今回よりも大きく上昇しておいる。インフレに影響を与えるその他の要因も物価の予想で考慮されるならば,予想インフレ率に影響を与える。金融緩和が2008年と2011年のインフレ予想を変化させたとは考えにくく(2008年のインフレ予想の上昇の前にはそもそも政策金利を0.25%から0.5%に引き上げた),今回も実際のインフレを起こした諸要因が存在している。したがって,予想インフレ率をそのまま使った分析では,そこに金融緩和の効果があったとしても過大評価されているし,効果がないという可能性も否定できない。異次元緩和の効果の解明には,金融政策が直接の影響をもった予想インフレ率の動きを分離して,それが実際のインフレに与える影響を見るような分析が必要になるが,これは非常に難しい。
 黒田総裁の講演も『経済財政白書』の分析も結局,それはできていないので,明確な結論は出しにくい。それでも紙数を割いているのは,異次元緩和がそういう課題設定を呼び込んでしまったせいだろう。分析の結果について,黒田総裁の「『量的・質的金融緩和』が所期の効果を発揮している」(6月23日の講演)は言い過ぎであり,『経済財政白書』の「大胆な金融政策が人々のデフレ予想を転換させ、フィリップス曲線を上昇させているかどうかについては、中長期の予想物価上昇率が明確に上昇していないこともあり、現時点でははっきりとは確認できない。」(32頁)は妥当なまとめ方である。

 異次元緩和の効果はそれがあったとしても,この時期のインフレ率上昇への寄与度はおそらく小さく,より寄与度の高い,他の4つの要因が経済にとってどういう影響を与えたかを考えることが重要である。
 ①「生鮮食品の価格」は需給の調整のために激しく変化するものなので,その良し悪しは普通,問われない。
 ②「輸入品やエネルギーの価格上昇」は国民の所得上昇がともなわないため,実質所得の減少になる。
 ③「GDPギャップの改善」によるインフレは,需要不足のもとで需要が高まるような状況では良いこととされる。しかし,この時期に潜在成長率の急速な低下がみられることから,需要が伸びずにGDPギャップが改善されている可能性がある。潜在成長率の向上は重要な課題となる。
 ④「耐久消費財の価格下落」の意味を探るために,『国民経済計算』(内閣府)で過去10年間の動向を見てみよう。2002年度から2012年度までの10年間で耐久消費財支出は名目では2兆円の微減であるが,この期間の大きな価格低下によって実質は22兆円の成長となっている。かつて高嶺の花だった高性能のデジタル家電が急激な価格下落によって広く一般家庭にも広まった現象の数字への現れである。名目の消費総額がほぼ変わらないなか,実質消費の成長の大きな部分が耐久消費財の価格下落によって造り出されていた。耐久消費財価格が下げ止まったのは円安が始まる前なので,技術革新に構造変化が起きたと見るべきだろう。経済成長の重要なエンジンが失われた可能性がある。
 
国内家計最終消費支出・推移
 
 インフレの主要な要因(輸入物価の上昇,エネルギー価格の上昇,耐久消費財価格の下げ止まり)は国民の生活水準を低下させるものであり,それらは異次元緩和によって起こったことではない。GDPギャップがゼロに近づいているので,かりに金融政策がGDPギャップを改善できたとしても,悪影響を十分に相殺できるものでもない。であれば日銀は,ここまでに起こったインフレに一定の距離を置いた方が良いだろう。最近の物価動向を異次元緩和の成果とする,黒田総裁のような解釈は「異次元」(あさっての方向)のものであり,政府と日銀の政策運営を誤らせることになる。
 いま経済学者を集めて異次元緩和がインフレ予想を高めたか否かを議論させても,意義があるのはどのようにそれを検証するかという方法論の議論であり,方法論の進展がなければ政策の成否について意義のある結論は出ない。経済学者を招集する目的が方法論に関する知的好奇心にあるのではなく,日本経済の課題を考えることであるならば,他の重要課題に目を転じるべきである。問題は日本経済の成長力にあるので,金融緩和を強調したアベノミクスの組み立てにとらわれると,名目所得が増えずに物価が上がることで国民が実質所得の減少を経験している問題への対処法を誤ってしまう。