追加経済対策のなかの2兆円の定額給付金に所得制限を設ける方法として,高額所得者に受け取りを自粛するように促す案が現れた。一言でいえば「正直者が馬鹿を見る」制度なので,実現に値しない方法だが,経済学的には奥の深い論点を含んでいる。
 所得を基準に対象者を分ける制度は現にいろいろ存在するが,それらは政策当局が所得を把握していることが前提である。じつはそのとき,本当は所得以外の属性をもとに政策を実施したいが,それが把握できないため,所得を代理指標として用いていることがある。代表的なものは所得税の累進税率である。所得再分配のためには能力に応じて税率を設定する方が望ましい。所得課税は,平均以下の能力でも人より勤勉に働くことで所得を得る人よりも,能力があっても働かないで所得の低い人を優遇する。努力に税金をかける必要はないのだが,所得は把握できるが,能力と努力を別々に把握できない。だから,次善の策として所得を基準に税率を設定しているのだ。これがVickrey (1945),Mirrlees (1971)による,最適所得税の考え方の出発点である。
 法律を作らず予算措置で定額給付金を実現させるには所得情報を使えないのが,現状の悩みである。所得が把握できないが所得に応じて対象者を決めるとなると,自己申告制にせざるを得ない。
 虚偽申告の罰則も心理的費用もなければ,高額所得者も定額給付金を受け取るだろう。経済学では個人はそのように行動すると想定して,政策を設計する。これは経済学が虚偽申告を勧めているのではない。経済学者は普通の国民と同じく,皆が正直に生きていくことを願っている。しかし,世の中に不心得者がいることは認めざるを得ない現実である。そこで,正直者が馬鹿を見ない制度を設計しないといけない。
 高額所得者に辞退を促す案は,こうした経済政策の決めごと(所得は把握できる。正直者が馬鹿を見ないようにする)を大きく逸脱している。もしこの方法がうまくいくのであれば,なぜ皆が損をしても正直に行動するのかを行動経済学的接近で解明して,政策の議論を見直さないといけないだろう。
 さらに,この方法がうまくいくのであれば,定額給付金が貯蓄に回って需要刺激につながらないという懸念に対処して,もう一工夫できる。需要刺激に効果的なのは,限界消費性向が高い人にお金を渡すことである。しかし,政府が個人の限界消費性向を知ることはできないので,普通はこういう政策を考えない。しかし,所得が観察不可能な状況ならば,限界消費性向も同じこと。自主的辞退案が本当にうまく機能するのなら,限界消費性向の高い人を定額給付金の対象にして,限界消費性向の低い人には辞退してもらう制度にすれば,より効率的な需要刺激策になるはずである。私は自主的辞退案がうまく機能するとは思わないので,これは政策提言ではなく,政策の考え方をより深く理解するための思考実験である。おかしな前提からはおかしな帰結が導かれるのである。

(参考文献)
Mirrlees, J. A. (1971), “An Exploration in the Theory of the Theory of Optimum Income Taxation,” Review of Economic Studies, Vol. 38, No. 114, April, pp. 175-208.
Vickrey, William (1945), “Measuring Marginal Utility by Reactions to Risk,” Econometrica, Vol. 13, No. 4, October, 319-333.

(関係する過去記事)
ほぼ余計な追加的経済対策