ネット上では,「インフレ目標」は「熱い」話題になる傾向があって,うかつに近寄りがたい。また,専門家が議論していることから大きく外れた議論がまかり通っていることも気になる。きちんと議論している人もいるのだが,玉石混交の状態だ。どのように情報を取捨選択するのかが大事である。
 専門的な議論を一般の人にもわかりやすく伝えようとする際には,難しいところをやさしくしようといろいろ工夫するのだが,場合によっては「伝言ゲーム」のようになって,難しいが正しい部分が抜け落ちて,わかりやすいが間違った話が伝わってしまうことがある。インフレ目標についてはとくに,「伝言ゲーム」で間違いが伝わりやすい性格をもっている。
 この記事では,なぜ「伝言ゲーム」の落とし穴に落ちやすいのかを一般の方にもできるだけ伝えたい。ただ,こちらが「伝言ゲーム」の呪いにかかるのを避けるために,ここでは専門的な議論の原典を出す。原典と皆さんの理解のギャップを,ここだけで完全に埋めることは無理だと思うので,その責任は負えない。できれば読者には,原典の意図がきちんと伝わっているかをよりどころに,情報の良し悪しを自分で選別していただきたい。

(1) 「なぜインフレ目標が必要なのか」
 その理論的根拠は,キッドランド教授とプレスコット教授が1977年に発表した「時間整合性」(time consistency)の議論にある。
 この議論が一般の人にはすぐには伝わりにくい。それも無理はない。両教授が数学的に定式化するまでは,学界でもきちんと認知されていなかった問題であり,だからこそノーベル経済学賞を受賞する業績となったのである。
 時間整合性の議論は経済現象のさまざまな場面に現れるが,金融政策については,随時,最良の政策をとっていく「裁量的政策」が,時間を通して見た場合に望ましくないことになっている,という現象として現れる。「日々最善をつくすことが,全体として最善になっていない」という理屈をいきなり持ち出されると,予備知識のない人は面食らうだろう。時間整合性を噛み砕いて説明することは,今回の記事の主旨ではないので,先を急ぐ。
 時間整合性の議論が裏付けたのは,「その時その時で最良な政策を追求するよりは,ルール化した政策をとる(その時だけを見れば最良ではない)方が望ましい」という考え方である。ルールはそれが守られているかどうか外から確認ができるように簡明なものが望ましい。そうしたルールとして考えられてきたものの代表が,「インフレーション・ターゲッティング・ルール」である。この考え方が定着するには何人かの学者の研究がかかわっているが,代表格にはスベンソン教授があげられる。また,他のルールも考えられている。

「伝言ゲーム」が起こる危険があるのは,日常生活での「目標」の使い方が,たとえ話や理解の助けに使われそうだからである。何かの目的を達成したいときに「目標を掲げる」ということが有効である,というのは日常の生活の知恵として受け入れられている。これを適用すると,日本銀行がデフレを解消するには,まずはデフレではない物価上昇率の実現を目標に掲げましょう,という話になってしまう。そして,目標をたてない・達成できないのは,やる気がない,意志が弱い,ということにされてしまう。「インフレ目標」の根拠となる時間整合性は,それとは全然違う。一度,常識に基づく例え話を呑み込んでしまうと,時間整合性の議論は空理空論や詭弁のように聞こえてしまうことになる。

(2)「マネーストックを増やせばインフレは起こるか」
 経済が流動性の罠にあるとき,「現在」のマネーストックを増やすだけではインフレは起きない,「将来」のマネーストックが増えると皆が信じるとインフレが起きる。これが共通の理解。
 「流動性の罠」とは,自然利子率が一時的に負になっていて,本来は金利を大きく下げたいが,名目金利はゼロより小さくなれないので,金利を限界(ゼロ)まで下げても,金融は不本意にも引き締められた状態にあることである。そのため,所得の減少とデフレが生じる。自然利子率については,ウッドフォード教授やガリ教授の教科書にあたってほしい。
 流動性の罠への処方箋としてインフレを起こすことを提唱したクルーグマン教授の有名な論文のモデルでもこれが成立する。より明確にこのことを示しているのは,エガートソン氏とウッドフォード教授の論文である。
 マネーストックとマネタリーベースと「お札」が比例的に動くと考えて,お札を刷れば(流動性の罠を抜ける,ないし弊害を緩和する)効果があるか,という問いに置き換えよう。すると,現在にお札をするだけでは効果ない,将来にお札が増えることを皆が信じると効果がある,ということになる。
 ここで,「現在」と「将来」を落としてしまうと,議論はたちまちおかしなことになる。つまり,同じ人間が「お札を刷っても効果がない」と,「お札を刷ると効果がある」ことを同時にいっているように見えるので,「あいつ,何言っているのだ」という批判されて,「負け」である。しかし,それは審判の誤審である。また,「現在にマネーストックを増やせばインフレが起きる」という間違った結論が導かれる危険もある。
 流動性の罠については,現在と将来の貨幣をきちんと区別していない議論には,非常に注意する必要がある。いや,相手にしない方がいい。

 つぎに,将来のマネーストックの増え方は,その時の経済状況に対して過剰に金融緩和されているぐらい増えていないといけない。これもクルーグマン教授の論文以来,知られていることである。ここで,(1)の時間整合性の議論がからみあう。つまり,将来に金融緩和をすることを皆が信じればいいが,実際にその将来になってみれば,その金融緩和は過剰なので,裁量的な政策をとるならばやめた方がいい。そういうことを皆が見透かすと,将来に金融緩和することを信じてもらえなくなり,インフレが起こらない。
 焦点は,中央銀行に確実に将来に金融緩和させるという,たがをはめこむことができるかどうかである。そして,インフレ目標がその役目を果たすことができるか,どうかである。クルーグマン教授の論文が発表されたときから,ここが専門的な議論の焦点でもあった。
 そういう約束をさせることが難しいと考える学者は,問題点をいろいろと指摘してきた。そして,約束をさせることに楽観的な学者は,いろいろな提案をしてきたのだった。
 学界を離れると,時間整合性の議論にまったく無頓着な議論をする人がいる。そもそも時間整合性の議論を知らなければ,そうなる。すると,将来にお札を刷るように約束すればインフレになるじゃないか,で頭が固まってしまって,学界がおバカの集団に見えてくるようになる。

(3)「インフレ目標は有効か」
 もう一度,時間整合性に戻る。本当に最適な政策から裁量的政策が離れることは,裁量政策のバイアスと呼ばれるが,金融政策の場面では,3種類のバイアスが知られている。
 第1は,「インフレバイアス」。裁量政策のもとでインフレ率が望ましい水準よりも高くなってしまうことである。
 第2は,「安定化バイアス」。以上2つのバイアスは,ウッドフォード教授やガリ教授の教科書で整理された議論にあたった方が,効果的に理解できるだろう。
 第3は,「デフレバイアス」である。これは,上でのべたように,将来の金融緩和の約束が守られないことが見透かされて,最適な政策よりデフレになってしまうことである。
 最初の2つのバイアスは,現在の裁量政策が引き起こす問題であり,インフレ目標を導入することでバイアスに対処することは有効だと考える学者が多い。しかし,第3は,(2)でのべたように,将来の裁量政策であり,それも流動性の罠を抜けたときの裁量政策となると,1年後のような近い話ではなくなる。このため,約束を守る質が,全然違う。高いインフレを抑える話と,デフレからインフレにする話では,論理的構造がまったく違う。両者を一緒にすると,議論は混乱する。
 なお,それぞれのバイアスでのインフレ目標の有効性については,悲観論,楽観論双方の立場の学者がいて,学界でも論争があるところなので,ここで,読者に結論を押しつけるつもりはない。
 ただし,「インフレ目標は有効か」,「インフレ目標は導入すべきか」という問いが,混乱を生じさせやすいものだということは,理解してもらいたい。「どういう目的のために」が前に入らないと,答えが変わってしまうのである。それが,流動性の罠に陥ったときの事後的なことか,流動性の罠に陥ることをできるだけ避ける事前のことか,流動性の罠が問題とならない時期のことか。どれが論じられているのかを区別しておかないと混乱する。

 以上が,複雑だが大事なところが抜け落ちると,間違った結論にたどりついて,専門的な論点がおバカのように見えてしまう落とし穴の代表例である。
 情報を取捨選択する際の参考にしてほしい。

(参考文献)
Gauti Eggertson (2006), “The Deflation Bias and Committing to Being Irresponsible,” Journal of Money, Credit, and Banking, Vol. 38, No. 2, March, pp. 283-321.

Eggertsson, Gauti B., and Michael Woodford (2003), “The Zero Bound on Interest Rates and Optimal Monetary Policy,” Brookings Papers on Economic Activity, No. 1, pp. 139-211.

Jordi Gali (2008), Monetary Policy, Inflation, and the Business Cycle: An Introduction to the New Keynesian Framework, Princeton University Press.

Paul R. Krugman (1998), “It’s Baaack: Japan’s Slump and the Return of the Liquidity Trap,” Brookings Paper on Economic Activity, No. 2, pp. 137-187.

Finn E. Kydland, and Edward C. Prescott (1977), "Rules Rather than Discretion: The Inconsistency of Optimal Plans," Journal of Political Economy, Vol. 85, No. 3. June, pp. 473-492.

Lars E. O. Svensson (1997), “Inflation Forecast Targeting: Implementing and Monitoring Inflation Targets,” European Economic Review, Vol. 41, No. 6, June, pp. 1111-1146

Michael Woodford (2003), Interest and Prices: Foundations of a Theory of Monetary Policy, Princeton, Princeton University Press.