金融政策でインフレを起こせる,という主張で使われる「バーナンキの背理法」だが,その問題点は誰かがネットで適切に解説しているかと思っていたが,どうもそうでもないようなので,私なりに整理してみる。
 
 ここで考えられているのは,「ヘリコプター・ドロップ」という政策である。これは,(1)政府が国債発行で財源調達して,現金を家計に支給する,(2)中央銀行が貨幣を増発して,その分の国債を買う,という2つの政策を組み合わせたものである。丁寧に全部いうと長くなるから,「現金が増えて,家計に行き渡る」ことが起こっているので,ヘリコプターで貨幣をばらまくような政策だと,短く言うことにしている。
 さて,バーナンキの背理法は,「こういう政策をとってもインフレが起こらないと仮定しよう」というところから出発する。「するとお札を刷ることで財政支出が全部まかなえることになり,無税国家が生まれる。無税国家は現実にはありえない。これは矛盾だからインフレが起こる」と続く。
 じつは,最初の「こういう政策をとってもインフレが起こらないと仮定しよう」が問題だ。その裏では,「こういう政策がとられなければもちろんインフレが起こらない(デフレのまま)」というのが前提になっている[2010年4月1日追記:ここで「裏」と使ってしまったのは,不注意な表現であった。論理学の「裏」を指す意図ではなく,一般的な用語法として,「暗黙の前提」という意味であった。本文は残しておくが,追記の形で訂正しておく]。しかし,これは,現在の常識的な予想に合わない。現在の予想は,現状のデフレは2年以上続くが,やがては(何年後かは人によって違うが)デフレは解消する,というものである。
 つまり,バーナンキの背理法は,出発点で現実と違う状況を考えているので,そこから先の議論は現状の政策立案の役に立たない。そして,現実的な想定のもとで将来にどういう政策がとられるのかが明確でないと,市場関係者も国民もどういう予想を抱いていいかわからなくなるだろう。
 
 ここで話を終えてもいいが,折角だから,ヘリコプター・ドロップによらずとも,いずれはインフレになるという前提のもとで,話を先に進めてみよう。
 理解を深めるために,ヘリコプター・ドロップではなく,日銀が国債を大量に買う(供給オペをおこなう)政策を最初に考えてみよう。そして,その政策ではインフレが起こらないが,政策とは別の要因で(例えば,景気の自律的回復で3年後に)インフレが起こると想定してみよう。当初にゼロ金利だとして,国債を大量に買うと,マネタリーベースが大きく膨らむ。インフレが起こったときにはゼロ金利を解除することになるだろうから,適正なマネタリーベースの水準に戻すために,当初に大量に買った国債を市場に売却しなければならない。これは,かつて日銀がとった量的緩和政策を解除する過程に似ている。量的緩和政策時に貨幣を大幅に増やしても,それに見合う物価上昇はまったく起こらなかったわけだから,量的緩和政策と同様のことをすれば同様に物価は上がらない,と市場は予想するだろう。その結果,この政策によってインフレが起こらない,という仮定と矛盾しない帰結が得られる。
 つぎは,ヘリコプター・ドロップに移ろう。日銀が購入した国債分のお金を家計に配る点が,上の量的緩和と類似の政策との違いになる。しかし,この違いの部分は,じつは財政政策である。だから,財政政策の効果がどうなるのか,と考えるとよい。財政政策を実行してもゼロ金利が維持されるなら,クラウディング・アウト効果(金利が上がって投資が減少することで,所得への影響が低下すること)を心配する必要はない。つまり,財政政策の所得への影響が最大限に出る状況である。大規模な財政政策(例えばよくいわれるような,国民1人当たり20万円,総額25兆円の定額給付金)をやれば,財政政策としての効果はあるだろう。
 さて,この財政政策の財源はどうやって負担することになるのだろうか。インフレが生じたときにゼロ金利を解除すると,当初に日銀が購入した国債のほとんどは市場に売却しなければならなくなるだろう。財政政策の財源となった国債は日銀から市場に戻ってくるので,通常の財政政策のように,その国債をどう償還するのかが問題になる。そして,その国債の負担は財政政策が起こすインフレによって解消するなどとは,マクロ経済学の教科書には書いていない(注1)。国債を償還するなら,その財源(おそらく増税)が必要になるのである。
 バーナンキの背理法は現実とは違う仮定から出発することで,この国債償還の部分を,インフレが起こってめでたしめでたし,といって隠している。景気対策を主張するときに国債の償還をぼかす人はよく見かけるが,それの変種のレトリックである。しかし,インフレでめでたしめでたし,と思っていたら,結局は普通の財政政策と同じく財源を負担することになったというのであれば,それは騙されているということである。
 財政政策を実行するのなら,財政政策を実行すると正直にいうべきだろう。そして,そのことを自覚して,政策の是非を判断する必要がある。
 
(注1) まず,財政政策が実行される不況のときは,そもそも物価が上がりにくい。しかし,多少は物価が上がると考えてもいいだろう。
 かりに物価が上がったら,国債の実質価値はそれによって目減りすることは事実である。しかし,同時に名目金利が上昇して利払費が増える分だけ国債が増発されると,それが相殺される。実質金利が変化しないと,インフレ率の上昇分だけ名目金利が上昇する。このため,もしすべての国債が短期債だとすると,インフレによる国債の実質価値の目減りを利払費の上昇による国債の増発がすべて相殺してしまうだろう。実際には長期債の金利は動かないので,その分の利払費の上昇がない個所だけが,インフレによって国債が償還された分になる。
 
(注2) 「政策がとられなくてもやがてインフレになる」状況と,「政策をとらなければデフレが永続する」状況では,政策の議論がまったく異なると考えていいので,区別することが非常に重要である。文献を読む場合にも,どちらの状況を議論しているのかに注意する必要がある。