1918年から1919年にかけての日本でのスペイン風邪の第1波の感染者は、2,117万人にも及んだ。これだけの感染者が医療機関に押し寄せると、医療機関は大変なことになる。『流行性感冒』(内務省衛生局編、東洋文庫版、pp.228-229)には、患者を受け入れていた一般病床がひっ迫して、伝染病院(現在の感染症指定医療機関)で受け入れたことが書かれている。
 現在、スペイン風邪流行時以上に厳しい経済活動の収縮も辞さない措置がとられているのは、やはり限られた医療資源を超えて患者が押し寄せて医療崩壊になることを防ぐことが目的である。これまでのところ、1.4万人を超える感染者が医療機関に押し寄せて、大変なことになっている。
 3桁も患者数が違えば、深刻度も桁外れだ。・・・何かおかしいですね。
 じつはおかしく見えているのは、大事なことをぼかして書いているからだ。経済学の初歩の練習問題として、その大事なことを読者に発見してもらいたい。
 医療を需要と供給の視点から見ると、医療崩壊とは医療への需要が医療の供給を上回る事態と解釈できるが、超過需要になるか否かは、需要だけでなく、供給の条件も大いに関係する。需要が3桁少なくても、供給も桁外れに少なければ、深刻な超過需要は生じるのである。つまり、練習問題の回答は、「スペイン風邪と新型コロナウイルス感染症で医療の対応が違う」である。

 知識を増やすついでに、新型インフルエンザ等対策特別措置法における新型インフルエンザへの対応も一緒に見てみよう。
 特措法に基づき、東京都が策定した行動計画では、新型インフルエンザの被害想定をピーク時で、
①1日新規外来患者数:49,300人
②1日最大患者数 :373,200人
③1日新規入院患者数: 3,800人
④1日最大必要病床数: 26,500床
と置いている。
 行動計画にある下図は、医療機関の対応をわかりやすくまとめている。
ブログ用・発生段階ごとの医療提供体制
(出典)「東京都新型インフルエンザ等対策行動計画」(2013年11月、2018年7月(変更))p.29

 都内発生早期(都内で新型インフルエンザ等の患者が発生しているが、全ての患者の接触歴を疫学調査で追える状態)までは、新型インフルエンザ専門外来で対応して、ウイルス検査の上、陽性であれば感染症指定医療機関に入院させる。『医療施設調査』(厚生労働省)によれば、2018年10月の全国の一般病床は890,712床、感染症病床は1,882床であり、東京都の一般病床は81,347床、感染症病床は145床である(都道府県編第12表、報告書第27表)。想定の必要病床数と現実の感染症病床数でこれだけ桁が違うと、だれが見ても感染症病床のみで被害想定のピークを乗り越えられるわけはなく、行動計画では、都内感染期(都内で新型インフルエンザ等の患者の接触歴が疫学調査で追えなくなった状態)には一般の医療機関が対応するように変わる。国の行動計画も同じ考え方である。背後には、インフルエンザウイルスの感染対策をして、季節性インフルエンザを診療している一般の医療機関は、新型インフルエンザにも対応できるだろう、という想定がある。こうして振り向けられた医療資源で足りない場合には、臨時の医療施設(いわゆる野戦病院)の活用も行動計画に記されている。
 ちなみにスペイン風邪の第1波が到来した1918年の一般病床は37,103床、感染症病床は30,576床であった(『日本の長期統計系列』総務省統計局)。感染症をめぐる状況は、時代とともに大きく変わった。
 まとめると、スペイン風邪、想定されていた新型インフルエンザ、新型コロナウイルス感染症は、どれも医療は違った対応をとる。入院について見ると、インフルエンザであるスペイン風邪はインフルエンザとして扱われ、一般病床がまず対応した。新型インフルエンザはまず感染症病床が対応した後、感染が拡大すると一般病床と野戦病院の活用で対応する想定であった。新型コロナウイルス感染症は、まず感染症病床が対応し、一般病床と野戦病院の活用が進まず、莫大な経済活動の縮小の代償を払って、いま感染拡大を抑え込もうとしている。

 感染症指定医療機関は患者が押し寄せることで医療崩壊の危機にあるが、一般の医療機関は逆に、医療機関での感染をおそれて患者が減っており、経営が悪化している。超過需要のすぐそばで超過供給が生じているという、少し不思議な現象だ。需要は大幅に増えても大幅に減っても、供給側には問題が起こる。事態が悪化すると、患者が増えることの医療崩壊と患者が減ることの医療崩壊に同時に見舞われる「ダブル医療崩壊」になる。

(参考)
『平成30年医療施設(動態)調査』都道府県編第12表(報告書第27表)
https://www.e-stat.go.jp/stat-search/files?page=1&layout=datalist&toukei=00450021&tstat=000001030908&cycle=7&tclass1=000001133023&tclass2=000001133025

「東京都新型インフルエンザ等対策行動計画」(2013年11月、2018年7月(変更))

『日本の長期統計系列』24-29 病床の種類別病院病床数
https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11423429/www.stat.go.jp/data/chouki/zuhyou/24-29.xls