感染症対策には、感染症の拡大を抑える効果と、その期間中の経済活動を抑制する費用のトレードオフがある、と通常は考えられている。ところが、3月26日に発表された論文(Correia, Luck and Verner 2020)では、スペイン風邪に対して早期に積極的な対策をとった都市ほど経済成長率が高かった、という結果を示した。感染症対策は経済にもプラスだ、というエビデンスは注目を集めて、様々なメディアで紹介された。日本でも、小黒一正教授、渡辺安虎教授等が紹介している。
 ところが、5月2日に、この論文にある経済への効果は実ははっきりしないという論文(Lilley, Lilley and Rinaldi 2020)が現れた。何が起こったのか、簡単にまとめてみよう。

 まず、Correia, Luck and Verner (2020)で確認されたのは、米国の43都市のデータにおいて、1918年の感染症対策(学校休校、集会の禁止、隔離、検疫等)の積極性(早期または長期間の採用)と1914年から1919年にかけての経済成長(製造業の生産または雇用の成長)に正の相関関係があることである。経済成長のデータはスペイン風邪流行前の期間の方を長く含むのだが、100年前の都市別データなので、ちょうど都合のよい期間のデータが見つからず、1914年と1919年の5年間隔のデータしかとれなかった。
 相関関係は因果関係を直ちには意味しない。因果関係を検証する手法のなかで、最良とされているのはランダム化比較試験(RCT)である。感染症対策でRCTを実施するならば、都市ごとにくじを引いて対策を実施するかどうかをランダムに決めることになるが、被験者の協力は得られそうになく、現実には不可能である。そのため、データが示す相関関係が因果関係を示さない可能性が出てくる。
 相関関係が因果関係ではない可能性の1つが、別の要因が両方(この場合、感染症対策と経済成長)に関係があるため、相関関係が表れた、という可能性である。経済成長を被説明変数とし、感染症対策とその他の変数を説明変数とする回帰分析では、この別の要因を説明変数に入れておかないと、調べたい因果関係について正しくない結果が出てしまう。これを「除外変数バイアス」(omitted variable bias)と呼ぶ。社会現象では、この別の要因を完全に網羅することは困難である。そのため、「何か重要な変数が抜けてないだろうか」というのは、雑誌の査読や学会の討論での定番のコメントである。
 いまの場合、除外されると心配になる変数は、スペイン風邪流行前の経済成長である。流行期をまたいで都市の成長トレンドがあれば、流行後の経済成長の違いは流行前の経済成長によって説明されてしまうかもしれない。この定番コメントに事前に備えておくのも論文執筆のほぼ定番であり、Correia, Luck and Verner (2020)では、(やはり5年間隔のデータから得られる)1909年から1914年までの経済成長を説明変数に加えて、感染症対策についての結果には影響しないとしている。
 これに対して、Lilley, Lilley and Rinaldi (2020)は、別の資料から1910年から1917年の人口成長のデータを得て、これを考慮すべき別の要因と考えた。経済成長そのものを示す変数ではないのだが、スペイン風邪流行前の期間としては、ぴったりだ。そして、流行前の人口成長は被説明変数の経済成長と相関がかなり高いと予想され、実際にデータでの相関は高かった。とくに、感染症対策に積極的な都市のなかで被説明変数となる経済成長が高かった都市のほとんどが、流行前の人口成長が高かった。流行前の期間を長く含む被説明変数には、流行前の期間の経済成長がかなり影響していることが疑われる。そして、なぜだかわからないが、流行前の人口成長は感染症対策の積極性とも相関があった。こうして、都市間の成長トレンドの差が感染症対策と経済成長の相関を作り出している可能性が見つかった。そこで、トレンド項を説明変数に加えると(これはこの種の実証分析では広く使われる手法である)、回帰分析での感染症対策の影響は統計的に有意ではなくなった(経済成長に正の影響があるとも、負の影響があるとも言えなくなった)。

 色々な研究者が色々な角度から調べて重要な変数を調べつくしたと思って、定説となっていても、後から重要な変数が見つかる可能性は常にある。まだ査読前の2本の論文で検討されただけなので、これで結果が確定したわけではないが、当初はかなり注目されたエビデンスは、現状では、弱いエビデンスと言わざるを得ない。これも研究の進歩である。私の個人的な判断では、新たな材料が出ないと、Correia, Luck and Verner (2020)での経済的影響に関わる結果はエビデンスとして採用できない(注)。

(注)また、注意すべき点として、強い措置である都市封鎖(ロックダウン)これらの研究には含まれていないので、ここでの知見が現在の欧米諸国でとられている都市封鎖にそのまま当てはまるわけではない。

(参考文献)
Sergio Correia, Stephan Luck and Emil Verner (2020), “Pandemics Depress the Economy, Public Health Interventions Do Not: Evidence from the 1918 Flu.” 

Lilley, Andrew, Matthew Lilley and Gianluca Rinaldi (2020), “Public Health Interventions and Economic Growth: Revisiting the Spanish Flu Evidence.”

(参考)
小黒一正「今回はスペイン風邪型危機:経済制約と一律給付が正解」『週刊ダイヤモンド』第108巻17号、2020年4月25日

「感染防止と経済対策は両立する 渡辺安虎氏」『日本経済新聞』2020年5月1日