感染症対策のための経済活動の制限を緩和すると、再び感染が拡大して人的被害が増える可能性がある。生命と経済にはトレードオフがあるが、両者は直接には比較できない。しかし、経済学で望ましい感染症対策を設計しようとする研究では、「統計的生命価値」(value of a statistical life)を使って、両者を比較可能(集計可能)な形にしている(Acemoglu et al. 2020、Alvarez, Argente and Lippi 2020等)。
 統計的生命価値は、公共事業、環境、食品、消費者をはじめ様々な政策分野での安全を高める(死亡リスクを低める)政策の評価に使われている(逆に、関係が深いと思われる医療分野での適用に対する抵抗が強いが、この話は長くなるので割愛する)。新型コロナウイルス感染症対策としての都市封鎖の評価を行ったGlover et al. (2020)、Gollier and Straub (2020)、Scherbina (2020)は、実用されている統計的生命価値を用いているが、Hall, Jones and Klenow (2020)、Pindyck (2020)は、感染症対策に関しては、そうした値は過大評価になると指摘している。その理由は、新型コロナウイルス感染症で考慮しなければいけないリスクは、従来の統計的生命価値が使われてきた安全対策のリスクよりも桁違いに大きいからである。その意味を見てみよう。

(数式を追うのが面倒な読者はここは読み飛ばしていい)まず、Hall, Jones and Klenow (2020)に沿って、統計的生命価値の理論的概念を簡単なモデルで示す。代表的個人は、現在の消費と将来の消費から効用を得ている。個人は消費平準化を図っていて、現在(1年間とする)と将来の1年間の消費はcで同じであると仮定する。将来の効用を割り引かないとすると、将来の効用は1年間の効用にその後の平均余命LEを乗じたものになり、代表的個人の期待効用は、
\[u(c)+u(c)LE\hspace{1em}(1)\]
と書ける。第1項が現在の効用、第2項が将来の効用の期待値である。将来の効用を貨幣価値化したものが統計的生命価値VSLである。理論分析では「統計的」の部分に込められた意味が表現されていないので、単に生命価値(value of life)と呼ぶ文献が多いが、ここでは生命価値と統計的生命価値の区別に立ち入らずに便宜上、統計的生命価値と呼んでおく。実際の数値が物価や為替レートで値が変わらないようにするため、消費に対する比率をとると、
\[\frac{VSL}{c}\equiv\frac{u(c)}{u^{\prime}(c)c}LE\hspace{1em}(2)\]
で表される。これは、貨幣価値化された1年間の効用の対消費比に平均余命を乗じたもの、とも言える。ここで、現在の死亡確率をδだけ減らし、それによって平均余命をδの割合だけ増やすために、代表的個人はいくらまで支払っていいかを考える。消費のαの割合を支払い、死亡確率が下がることで平均余命が伸びると、
\[u(1-\alpha)c)+u(c)(1+\delta)LE\hspace{1em}(3)\]
となる。(1)式と(3)式が等しくなるようなαは、
\[u(c)-u((1-\alpha)c)=u(c)\delta LE\hspace{1em}(4)\]
を満たす。(4)式の左辺をテーラー展開すると、
\[u^{\prime}(c)\alpha c=u(c)\delta LE\hspace{1em}(5)\]
となる。(5)式を整理すると、
\[\alpha=\delta\frac{u(c)}{u^{\prime}(c)c}LE=\delta\frac{VSL}{c}\hspace{1em}(6)\]
となる。(6)式に関係により、人々の選択からα、c、δが観測できれば、統計的生命価値を推計することができる。

 Hall, Jones and Klenow (2020)は、米国での統計的生命価値の典型例として、環境保護庁(EPA)の設定値である、1年間の平均余命が5年間の消費の価値がある、を紹介している。これに基づき、例えば国民の平均的な死亡確率を100万分の1引き下げる(人口1億2,600万人であれば1年間で126人の死者が減る)ような安全対策にいくらまで支出できるかを考えてみると、国民の平均余命を40年とする(死亡者の統計的生命価値は200年分の消費となる)と、平均余命の伸びは10万分の4年であり、1年間の消費の0.02%に相当する。
 この統計的生命価値の値を用いて、新型コロナウイルス感染症による致死率(死亡者/人口)が0.81%(Ferguson et al. 2020に基づく)と0.3%(Fernandez-Villaverde and Jones 2020に基づく)の場合を考えてみよう。死亡者は高齢者に偏るので、死亡者の平均余命は14.5年と計算され、統計的生命価値は72.5年分の消費となる。すると、致死率0.81%を避ける(感染症をなくす)ことには、感染者にとっては、1年間の消費の59%(0.81%×14.5×5)の価値があると計算される。
 しかし、消費をこれだけ犠牲にすることの痛みは、消費を0.02%犠牲にすることの痛みを比例的に伸ばして考えていいのか、という疑問がある。上述した数式でテーラー展開した(線形近似した)というのは、比例的に伸ばす、という意味になる。しかし、効用関数が非線形であれば、消費の減少が大きくなるほど、線形近似することの誤差が大きくなる。経済学では、消費が減少する痛みは比例関係以上に大きくなると考える。したがって、平均余命の10万分の1年程度の伸びについて蓄積されてきた研究の知見を、それよりもはるかに大きな平均余命の伸びに対して、比例関係を仮定して適用することは適当でない。
 そのため、大きなリスクに対する推計値を新たに設定することが必要になってくる。Hall, Jones and Klenow (2020)は1年間の消費の37%とする試算したが、その根拠はさほど強くない。なお、この試算では、1年間の平均余命の延長は、3.15年分の消費の価値がある。

 最適な都市封鎖(ロックダウン)の時期と規模を研究したAlvarez, Argente and Lippi (2020)では、Hall, Jones and Klenow (2020)の試算値に沿って、1年の平均余命の伸びが3年間の消費に相当すると設定した。死亡者の平均余命は10年としているため、死亡者の統計的生命価値はHall, Jones and Klenow (2020)の約3分の2になる。また、GDP比で表される経済活動の損失と比較できるように、消費のGDP比を3分の2として、GDP比に換算している。このため、死亡者の統計的生命価値は1人当たりGDPの20年分に相当すると設定された。また、統計的生命価値を1人当たりGDPの10年分、30年分、80年分、140年分に変えた感度分析も行っている。最後のGDPの140年分は、上述したEPAの設定値である消費の200年分にほぼ相当する。以下の表は、EPAの設定値、Hall, Jones and Klenow (2020)の試算値、Alvarez, Argente and Lippi (2020)の基準ケースの設定、をまとめたものである。

 

1年間の余命の価値

死亡者の平均余命

統計的生命価値

EPA

消費の5年分

40

消費の200年分

Hall, Jones and Klenow (2020)

消費の3.15年分

14.5

消費の45.7年分

Alvarez, Argente and Lippi (2020)

消費の3年分

10

消費の30年分

GDP20年分

(消費、GDPは1人当たり)

 Alvarez, Argente and Lippi (2020)のシミュレーションは、Ferguson et al. (2020)の問題設定に沿い、医療資源の制約を超えることによって生じる死亡者を減らすために、都市封鎖によって感染速度を遅らせ、ピークの感染者数を抑えようとする被害緩和(mitigation)政策を考えている。人的被害と経済的被害を最小にする都市封鎖のもとでの経済的被害の対GDP比を、統計的生命価値の5つのシナリオについて示したものが、以下の表である。それぞれの行を、左側の統計的生命価値を設定すると、最適な都市封鎖による経済的損失が右側の数字になる、と読めばよい。


統計的生命価値

(年間1人当たりGDP比)

都市封鎖による経済的損失

(年間GDP比)

10

4%

20

8%

30

12%

80

32%

140

20%(?)


 より人命を尊重すれば、感染を抑えようと都市封鎖が強くなると予想されるので、最後の140年のケースで、望ましい都市封鎖が弱まっているのは、奇妙である。もしかしたら誤植かもしれないので、いまの議論では140年のケースは除外しておく。上の議論からほぼあり得ない設定と烙印を押されているので、これを無視しても差し支えはなさそうだ。SIRモデルの非線形微分方程式を含む体系での動学最適化を行った結果から得られた数値であるものの、統計的生命価値の設定と都市封鎖による経済的損失にはほぼ比例関係があることがわかる。なお、都市封鎖による人的被害の軽減額は、経済的損失のほぼ倍と推計されている。具体的な数値自体は、様々なパラメーターの不確かさに影響されるので、そのまま真に受けるのではなく、注意して解釈しなければいけない。統計的生命価値の値が不確かであれば、感染症対策で許容される経済的損失もそれに比例して不確かになる。

 統計的生命価値の利用には批判や抵抗もあるので、あらためて統計的生命価値は感染症対策の評価にどのように活かされるのかを整理しよう。
 経済活動の制限緩和が感染の拡大にもなるなら、生命と経済を天秤にかけることになり、生命重視側からも経済重視側からも責められる、重たい選択である。しかし、政治家が決断して選ばなければいけない。専門家が政治家に代わって選択するわけではなく、専門家の役割は情報を提供することであり、その土台となる作業は2つある。1つは、「天秤にかける」という行為を理論的に位置づけることである。これは、Shelling (1965)により示された、社会にとっての生命と経済の選択を、個人にとってのリスクと経済の選択に置き換えることであり、ここから「統計的」を冠した統計的生命価値の概念が導かれる。もう1つは、人々が日常生活で(無意識であっても)リスクと経済を天秤にかけている意思決定を観察して、妥当と思われる統計的生命価値を計測することである。この2つの作業を通して、政策の意思決定を個人の意識から乖離しないようにするのである。
 しかし、新型コロナウイルス感染症によるリスクの大きさは、これまでの統計的生命価値の推計が対象としていたリスクよりも桁違いに大きく、既存の設定値が過大となることは理論的にわかるものの、人々の実際の選択から妥当な推計値を得ることは難しいし、研究の蓄積も少ない。したがって、感染症対策に使用する統計的生命価値の設定は、従来活用されてきた分野にはない困難を抱えている。特定の値にしぼって、望ましい政策を示すのではなく、統計的生命価値に幅をもたせた推計をした情報を提供する方が望ましいかもしれない。社会の選択を政治家と専門家の価値観によってではなく、個人の意識に沿った形で行おうとする努力も、最後には政治家の判断によらざるを得ない。Acemoglu et al. (2020)は、Alvarez, Argente and Lippi (2020)と類似の問題設定でシミュレーションを行っているが、人的被害と経済的被害を別次元の尺度として、そのトレードオフを示す形で、結果を提示している。これも、1つの方法である。

 なお、被害緩和のシミュレーションは、感染する人がすべて感染して収束する状態まで進んでいる。日本でこのまま早期に収束した場合、そこまでの対策を考えると、大半の人は感染しておらず、第二波以降に感染を遅らせたに過ぎないため、被害緩和とはまったく違う形で評価を行う必要がある。

(参考文献)
Acemoglu, Daron, Victor Chernozhukov, Ivan Werning, Michael D. Whinston (2020), “A Multi-Risk SIR Model with Optimally Targeted Lockdown”, NBER Working Paper No. 27102, May.

Alvarez, Fernando E., David Argente, Francesco Lippi (2020). "A Simple Planning Problem for COVID-19 Lockdown." NBER Working Paper Series No. 26981, April.

Ferguson, Neil M. (2020), “Impact of non-pharmaceutical interventions (NPIs) to reduce COVID-19 mortality and healthcare demand.”

Fernandez-Villaverde, Jesus and Charles I. Jones (2020), “Estimating and Simulating a SIRD Model of COVID-19 for Many Countries, States, and Cities.”
https://web.stanford.edu/~chadj/sird-paper.pdf

Glover, Andrew, Jonathan Heathcote, Dirk Krueger and Jose-Victor Rios-Rull (2020), “Health versus Wealth: On the Distributional Effects of Controlling a Pandemic,” NBER Working Paper No. 27046.

Gollier, Christian and Stephane Straub (2020), “Some Micro/macro Insights on the Economics of Coronavirus. Part 2: Health Policy,” VoxEU, 03 April.

Hall, Robert E., Charles I. Jones, and Peter J. Klenow (2020), “Trading Off Consumption and COVID-19 Deaths.”

Kissler, Stephen M., et al. (2020), “Projecting the Transmission Dynamics of SARS-CoV-2 Through the Postpandemic Period,” Science, April 14. 

Pindyck, Robert S. (2020), “COVID-19 and the Welfare Effects of Reducing Contagion,” NBER Working Paper No. 27121, May.

Schelling, Thomas C. (1968), “The Life You Save May Be Your Own,” in Samuel B. Chase, Jr. ed., Problems in Public Expenditure Analysis, Washington, DC: Brookings Institution, pp. 127–62.

Scherbina, Anna D. (2020), “Determining the Optimal Duration of the COVID-19 Suppression Policy: A Cost-Benefit Analysis.”