防災事業の政策評価では、災害の被害を想定することから始まる。そして、その被害を避けるための費用と比較して、その事業を実施すべきかどうかを考える。例えば河川の堤防工事では、まず既存の堤防を超える洪水の頻度(評価期間での確率分布で与える)を何等かのモデルに基づき想定して、洪水の際の浸水地域を特定し、そこにある財産価値を推計して、「確率×洪水の際の被害額」をもとに、被害の期待値を求める。洪水の大きさも複数種類、考慮する。堤防を強化したときに防ぐことのできる被害が、堤防工事の便益となる。
 新型コロナウイルス感染症対策も同様の考え方で評価できる。そこで、まず感染症流行の被害想定が必要だ。基本再生産数を一定としたSIRモデルに基づくと、被害想定は非常に簡単な作業になる。このモデルでシミュレーションしていくと、やがて感染が(ほぼ)止まり、感染者が限りなくゼロに近づく。そして、累積感染者(人口比で1-S∞、Sは非感染者)の収束値は、理論的に
\[logS_\infty -logS_0 +\frac{\beta}{\gamma}(1-S_\infty)=0\]
となる(導出はこの記事の末尾に示す)。ここで、S0は非感染者の初期値であり、ほぼ1に等しい。感染染者の初期値が無視できるほど小さいので、累積感染者数の収束値は基本再生産数β/γのみで決まる。数値計算で求めないといけないが、Excelでも計算できるくらいに簡単である。この解は、S∞が1より少し大きいものと、S∞が0と1の間にあるものの2つあり、意味がある解は後者である。そこで、ソルバーではS∞が1より小さいという制約を加える必要がある(感染者数がピークを迎えるSである「1/基本再生産数」より小さいという制約にしておけば、大丈夫だと思われる)。
 累積死亡者数は、累積感染者数に致死率(死亡者/感染者)を乗じる計算法が簡便だが、それを使うと、感染症流行の人的被害は基本再生産数と致死率の2つのパラメーターによって決まる、ということができる。そして、これまで未知の新型コロナウイルス感染症では、この2つの数字ともよくわかっていないというのが現状だ。その場合、様々なパラメーターの値について人的被害を推計して、パラメーターの不確かさが結果にどのような影響を与えるか、を考察する「感度分析」(sensitivity analysis)が非常に重要になる。
 以下は、感度分析の一つの試みである。計算は、Excelシートで行った。下の表は、その結果である(Excelシートの結果をそのまま使っている)。まず、基本再生産数は1.1、1.5、2.0、2.5、3.0、3.5を設定した。基本再生産数が1以下では感染は流行しないので、最低値を1.1としている。1以下だと、ここでの分析そのものが意味を持たない。感染拡大を起こした欧米諸国のシミュレーションの設定値をカバーしようとているので、日本には妥当しそうにもない高い数値が多い。

 感染症の被害想定
(単位:万人)

 累積感染者数の推計では、基本再生産数が2.5では最終的に人口の89%が感染する。基本再生産数が動いたときの累積感染者数の動きは、基本再生産数が小さいほど大きい。2.5から3.0へ上昇すると累積感染者数は5ポイント上昇するが、1.1から1.5への上昇では40ポイントも上昇する。したがって、基本再生産数が1に近いと、被害想定は格段に不確かさが高まる。
 死亡者数の推計での致死率は0.37%、0.5%、1%、1.5%、2%を設定した。各国の統計で把握されていない無症状者・有症状者が多くいるために、致死率の不確かさも非常に大きい。こちらも欧米諸国のシミュレーションでの設定をカバーするようにした。感染爆発で医療崩壊に至ると、致死率も高まる。そこで、1%よりも高い値も設定した。
 基本再生産数が2.5で致死率が0.37%のときに、死亡者数は42万人(もう1桁とると41.6万人)という、喧伝されている数字になる。まったくの偶然だろうが、0.37%という致死率は、ドイツのガンゲルトの住民を対象にした抗体調査で推計されたことがある。これは、統計で把握されていない感染者も含めた致死率の推計値として注目されたものである。
「何もしなければx万人が死ぬ」という場合、対策をすればこのx万人が不死身になるわけではない。x万人はやがて別の理由で死ぬ。そこで、人的被害を人数で計測するのではなく、死亡者の余命(感染しなければ生きられた期間)で計測する方法もある。この場合、「何もしなければx万人の余命が平均y年短縮した」というのが、被害の表現になる。その裏返しとして、「x万人を平均y年長生きさせた」というのが、対策の効果になる。

 感度分析は、どれが正しい推計値かを決める作業ではない。その意義は、まず、現状で被害想定がどれだけ不確かかを知ることができる。つぎに、どのパラメーターの推計の精度を高めると、目的とする推計の精度が高まるかを知ることができ、どのパラメーターの推計制度の改善が望まれるかを明らかにしてくれる。なお、ここではSIRモデルに基づいたが、SIRモデルの予測が正しいかどうかは、別の問題である。他のモデルによる予測も可能ならば、モデル間の比較の作業も有益だろう。

(Excelシート)
 ご自身で感度分析をしてみたい方のために、この記事で使用したExcelシートを公開します。
https://iwmtyss.com/Docs/2020/COVID-19_HumanDamageScenarios.xlsx
「Parameters」シートにある、各シナリオは、基本再生産数の設定のもとにソルバーによって累積感染者の収束値を求めています。非感染者の初期値は1として、収束値は1以外の解を求めます。各シナリオの結果が、「シナリオ ピボットテーブル」に示されています。
 ソルバーでの収束計算で解が見つけられない場合、解がどの辺にあるかを示すためのシートが「Graph」と「GraphData」です。制約がない場合、解が2つあることもグラフからわかります。
 ソルバーがインストールされていない場合は、どこかで手順を調べて、ソルバーをインストールしてください。なお、シートについてのサポートは致しかねますので、ご了承ください。

(累積感染者数の収束値の導出)
SIRモデルでの未感染者の動学
\[\frac{dS}{dt}=-\beta SI\]
は、
\[\frac{dlogS}{dt}=-\beta I\]
と変形できる。これと回復者と死亡者Rの動学
\[\frac{dR}{dt}=-\gamma I\]
を合わせると、
\[\frac{dlogS}{dR}=-\frac{\beta}{\gamma}\]
が得られる。初期値ではR=0となるとして、Rについて積分すると、
\[logS_\infty -logS_0 =-\frac{\beta}{\gamma}R\]
となる。S0は非感染者の初期値である。収束して感染者IがいなくなるとR=1-Sとなることから、
\[logS_\infty -logS_0 +\frac{\beta}{\gamma}(1-S_\infty)=0\]
となる。

(参考)
Streeck, Hendrik, et al. (2020), “Vorläufiges Ergebnis und Schlussfolgerungen der COVID-19 Case-ClusterStudy (Gemeinde Gangelt).”
https://www.land.nrw/sites/default/files/asset/document/zwischenergebnis_covid19_case_study_gangelt_0.pdf

「新型コロナ、2割が無症状 感染者実数 公式発表の10倍の可能性 ドイツ」AFPBB News、2020年5月5日