23日に,年金の財政検証結果が社会保障審議会年金部会に報告された。名目運用利回りが4.1%と設定されたことなど,楽観的な設定が採用されたことが批判されている。物価上昇率は1%とされているので,実質利回りは3.1%になる。2004年の財政再計算の際には,名目運用利回り3.2%,物価上昇率1%,実質利回りは2.2%。実質利回りの実績値はこの5年間で大きく動いていないが,今回の財政検証で,将来の予測は0.9ポイント引き上げられた。
そのからくりは,以下のようである。
実質利回り(3.1%)は,将来の実質金利(2.7%)と分散投資効果(0.4%)の和として計算された。将来の実質金利は,
過去の実質金利×(将来の利潤率の見込み/過去の利潤率の実績)
として計算される。将来の実質金利を直接予測するのではなく,実質金利と利潤率が比例関係にあるとして,将来の利潤率を予測するようにしている。経済前提を議論していた年金部会経済前提専門委員会の資料「平成21年財政検証における経済前提の範囲について[関連資料]」(http://www.mhlw.go.jp/shingi/2008/11/dl/s1111-5d.pdf )17ページにあるように,この将来の利潤率が,2004年の財政再計算の基準ケースでは6.5%,今回の財政検証では9.7%とされた。これによって,今回の将来の運用利回りが高く設定されることになったのである。
将来の利潤率の見通しは,以下のように計算される。コッブ・ダグラス型生産関数の性質を使うと
利潤率=資本分配率÷(資本ストック÷GDP)-資本減耗率
の関係がある。括弧内は資本係数と呼ばれる。上記資料16ページに,資本分配率と資本減耗率の設定が書かれている。これを用いて資本係数を逆算して,利潤率の算定根拠を比べてみよう。2004年の財政再計算では,利潤率は,
37.3%÷2.54-8.2%=6.5%
(2009年3月2日追記:上式の2.54のところを2.52と誤記していました。訂正します)
として計算された。今回は
39.1%÷2.10-8.9%=9.7%
として計算された。
今回の経済前提では資本係数が大きく下がった(資本ストックがGDPの40%程度小さくなった)のが,利潤率の上昇の原因である。資本係数が下がったのは,上記資料15ページにあるように,今回は総投資率(対GDP比)を2%程度低く設定したのが原因である。このページが問題の核心である。図を見ると,総投資率をわずかに引き下げているだけのような印象を与えるが,そうではない。資本ストックの増加が毎年,GDPの2%程度小さくなる効果が累積していくのである(ただし,資本減耗があるので,投資減少分の効果の一部は消えていく)。大雑把にとらえると,資本ストックが約40%減少したのは,毎年2%程度の引き下げ効果が,その一部は消えたものの,約30年間累積した結果だと考えられる。
以上は,からくりを一般の方向けに説明したものである。以下は,私の同業者に向けたものになる。この一件は,厚生労働省を批判するだけではすまされず,経済学者として考えなければいけない問題をはらんでいる。
(1)
経済学者であれば,将来の貯蓄と投資の行動をきちんと経済学的にモデル化して,将来の実質金利を予測すべきと考えるだろうが,正確な推計は非常に難しい。私は20年ほど前に世代共存モデルを使って年金政策のシミュレーション分析をしたことがあるが,貯蓄に関するパラメータを変えると,資本係数をはじめとする変数が大きく変化する経験をした。このモデルでそのまま政策を議論することは危険であり,貯蓄に関するパラメータの精度を高める必要があると考えた。それで貯蓄の研究をはじめたのだが,データが限られていること,子供世帯と同居する高齢者の実態を把握することが概念上も難しいこと等の問題で,貯蓄の研究の精度を高めることが非常に難しいことを痛感した。
福井唯嗣京都産業大准教授と私が開発した医療・介護保険財政モデルは,あえて行動方程式を設けず,資本係数が外生的に一定という仮定を置いている。この研究をセミナー等で同業者相手に発表すると,労働供給と投資が経済主体の行動から導かれていないことについて,批判的なコメントを必ず受ける。経済学者が見れば,われわれのモデルは経済分析として原始的だと感じることは,私も十分に承知している。われわれのモデルに比べると,年金財政検証での運用利回りの設定の方が,精緻な手法を採用している。
(2)
しかし,上で見たように,わずかな設定の違いが政策の評価に重大な違いをもたらすとしたら,そしてその設定の違いを現状の経済学の研究水準で十分に縮めることができないとしたら,それが政策の現場に適用されることは適当であろうか。学者の間では,学術的な研究は,精緻なもの,最新のもの,独創的なものが高く評価される。最新の精緻な研究が政策の現場に適用されることがすばらしいことだと考える学者も多いかもしれない。
しかし,精緻なモデルは当事者以外にはブラックボックス化してしまい,パラメータの確からしい範囲が大きな幅をもつと政策当局に都合よく設定されるおそれがある。
むしろ,単純なもの,古くからあるものの方が,政策に適用される研究にふさわしい場面が多いと,私は考えている。経済分析には誤差がともなうので,多くの研究を蓄積して確からしい範囲を狭めていくことで,経済学の研究は進化する。検証が足りていない最新の研究をもちこむよりは,見える化を優先して原始的な構造のモデルをあえて採用したり,十分に経済学者の間で検討されたパラメータを使えるモデルを採用する方が望ましいのではないか。
政策決定過程として考えると,モデルとパラメータの設定では,国民の理解と納得を得ることも重要だ。年金財政検証の運用利回りでは,鈴木亘学習院大准教授がブログ記事「40年国債利回りを公的年金予測の前提に」(http://blogs.yahoo.co.jp/kqsmr859/22029502.html )で指摘しているように,長期の国債利回りを使うことで,市場の予想と整合的になるだろう。2004年の財政再計算での経済前提を検討した報告書「運用利回りの範囲について(検討結果の報告)」(http://www.mhlw.go.jp/shingi/2003/08/s0827-9.html )では,「なお、この推計結果は、直近の市場金利のイールドカーブ等からみても、概ね違和感のない水準にあるものと考えられる」と書かれている。経済学的に精緻化したように見えても,これを失ってしまうのは,はたして望ましいことだろうか。
(3)
パラメータの確からしい範囲を狭める努力が重要だという認識は,研究者のなかで共有されているだろうか。
同業者に苦言を呈することはできれば避けたいのだが,実証分析・シミュレーション分析で得られた数値を他の研究としっかり比較して,確からしさを検証する作業が不十分な研究を見かけることは少なくない。また,統計的に有意で,期待される符号をもつ係数を得たことで満足して,その数値が途方もない帰結をもたらすことに何も注意を払わない実証研究もある。
政策に適用される経済分析を精緻化するには,モデルの確からしさ,パラメータの確からしさを高める作業をすることが非常に重要なことを,多くの研究者に認識してほしいと思う。
(参考)
社会保障審議会年金部会(第14回)議事次第
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/02/s0223-9.html
このURLで「国民年金及び厚生年金に係る財政の現況及び見通し(平成21年財政検証結果)」がダウンロード可能。今回は,バックデータも公開されていることが注目である。
「平成21年財政検証における経済前提の範囲について[関連資料]」(社会保障審議会年金部会経済前提専門委員会,2008年11月11日)
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2008/11/dl/s1111-5d.pdf
社会保障審議会年金部会経済前提専門委員会の議事録,資料等
http://www.mhlw.go.jp/shingi/hosho.html#n-keizai
「運用利回りの範囲について(検討結果の報告)」(社会保障審議会年金資金運用分科会,2003年8月17日)
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2003/08/s0827-9.html
「40年国債利回りを公的年金予測の前提に」(鈴木亘)
http://blogs.yahoo.co.jp/kqsmr859/22029502.html
医療・介護保険財政モデル・ホームページ
https://iwmtyss.com/HLIModel/index.html
そのからくりは,以下のようである。
実質利回り(3.1%)は,将来の実質金利(2.7%)と分散投資効果(0.4%)の和として計算された。将来の実質金利は,
過去の実質金利×(将来の利潤率の見込み/過去の利潤率の実績)
として計算される。将来の実質金利を直接予測するのではなく,実質金利と利潤率が比例関係にあるとして,将来の利潤率を予測するようにしている。経済前提を議論していた年金部会経済前提専門委員会の資料「平成21年財政検証における経済前提の範囲について[関連資料]」(http://www.mhlw.go.jp/shingi/2008/11/dl/s1111-5d.pdf )17ページにあるように,この将来の利潤率が,2004年の財政再計算の基準ケースでは6.5%,今回の財政検証では9.7%とされた。これによって,今回の将来の運用利回りが高く設定されることになったのである。
将来の利潤率の見通しは,以下のように計算される。コッブ・ダグラス型生産関数の性質を使うと
利潤率=資本分配率÷(資本ストック÷GDP)-資本減耗率
の関係がある。括弧内は資本係数と呼ばれる。上記資料16ページに,資本分配率と資本減耗率の設定が書かれている。これを用いて資本係数を逆算して,利潤率の算定根拠を比べてみよう。2004年の財政再計算では,利潤率は,
37.3%÷2.54-8.2%=6.5%
(2009年3月2日追記:上式の2.54のところを2.52と誤記していました。訂正します)
として計算された。今回は
39.1%÷2.10-8.9%=9.7%
として計算された。
今回の経済前提では資本係数が大きく下がった(資本ストックがGDPの40%程度小さくなった)のが,利潤率の上昇の原因である。資本係数が下がったのは,上記資料15ページにあるように,今回は総投資率(対GDP比)を2%程度低く設定したのが原因である。このページが問題の核心である。図を見ると,総投資率をわずかに引き下げているだけのような印象を与えるが,そうではない。資本ストックの増加が毎年,GDPの2%程度小さくなる効果が累積していくのである(ただし,資本減耗があるので,投資減少分の効果の一部は消えていく)。大雑把にとらえると,資本ストックが約40%減少したのは,毎年2%程度の引き下げ効果が,その一部は消えたものの,約30年間累積した結果だと考えられる。
以上は,からくりを一般の方向けに説明したものである。以下は,私の同業者に向けたものになる。この一件は,厚生労働省を批判するだけではすまされず,経済学者として考えなければいけない問題をはらんでいる。
(1)
経済学者であれば,将来の貯蓄と投資の行動をきちんと経済学的にモデル化して,将来の実質金利を予測すべきと考えるだろうが,正確な推計は非常に難しい。私は20年ほど前に世代共存モデルを使って年金政策のシミュレーション分析をしたことがあるが,貯蓄に関するパラメータを変えると,資本係数をはじめとする変数が大きく変化する経験をした。このモデルでそのまま政策を議論することは危険であり,貯蓄に関するパラメータの精度を高める必要があると考えた。それで貯蓄の研究をはじめたのだが,データが限られていること,子供世帯と同居する高齢者の実態を把握することが概念上も難しいこと等の問題で,貯蓄の研究の精度を高めることが非常に難しいことを痛感した。
福井唯嗣京都産業大准教授と私が開発した医療・介護保険財政モデルは,あえて行動方程式を設けず,資本係数が外生的に一定という仮定を置いている。この研究をセミナー等で同業者相手に発表すると,労働供給と投資が経済主体の行動から導かれていないことについて,批判的なコメントを必ず受ける。経済学者が見れば,われわれのモデルは経済分析として原始的だと感じることは,私も十分に承知している。われわれのモデルに比べると,年金財政検証での運用利回りの設定の方が,精緻な手法を採用している。
(2)
しかし,上で見たように,わずかな設定の違いが政策の評価に重大な違いをもたらすとしたら,そしてその設定の違いを現状の経済学の研究水準で十分に縮めることができないとしたら,それが政策の現場に適用されることは適当であろうか。学者の間では,学術的な研究は,精緻なもの,最新のもの,独創的なものが高く評価される。最新の精緻な研究が政策の現場に適用されることがすばらしいことだと考える学者も多いかもしれない。
しかし,精緻なモデルは当事者以外にはブラックボックス化してしまい,パラメータの確からしい範囲が大きな幅をもつと政策当局に都合よく設定されるおそれがある。
むしろ,単純なもの,古くからあるものの方が,政策に適用される研究にふさわしい場面が多いと,私は考えている。経済分析には誤差がともなうので,多くの研究を蓄積して確からしい範囲を狭めていくことで,経済学の研究は進化する。検証が足りていない最新の研究をもちこむよりは,見える化を優先して原始的な構造のモデルをあえて採用したり,十分に経済学者の間で検討されたパラメータを使えるモデルを採用する方が望ましいのではないか。
政策決定過程として考えると,モデルとパラメータの設定では,国民の理解と納得を得ることも重要だ。年金財政検証の運用利回りでは,鈴木亘学習院大准教授がブログ記事「40年国債利回りを公的年金予測の前提に」(http://blogs.yahoo.co.jp/kqsmr859/22029502.html )で指摘しているように,長期の国債利回りを使うことで,市場の予想と整合的になるだろう。2004年の財政再計算での経済前提を検討した報告書「運用利回りの範囲について(検討結果の報告)」(http://www.mhlw.go.jp/shingi/2003/08/s0827-9.html )では,「なお、この推計結果は、直近の市場金利のイールドカーブ等からみても、概ね違和感のない水準にあるものと考えられる」と書かれている。経済学的に精緻化したように見えても,これを失ってしまうのは,はたして望ましいことだろうか。
(3)
パラメータの確からしい範囲を狭める努力が重要だという認識は,研究者のなかで共有されているだろうか。
同業者に苦言を呈することはできれば避けたいのだが,実証分析・シミュレーション分析で得られた数値を他の研究としっかり比較して,確からしさを検証する作業が不十分な研究を見かけることは少なくない。また,統計的に有意で,期待される符号をもつ係数を得たことで満足して,その数値が途方もない帰結をもたらすことに何も注意を払わない実証研究もある。
政策に適用される経済分析を精緻化するには,モデルの確からしさ,パラメータの確からしさを高める作業をすることが非常に重要なことを,多くの研究者に認識してほしいと思う。
(参考)
社会保障審議会年金部会(第14回)議事次第
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/02/s0223-9.html
このURLで「国民年金及び厚生年金に係る財政の現況及び見通し(平成21年財政検証結果)」がダウンロード可能。今回は,バックデータも公開されていることが注目である。
「平成21年財政検証における経済前提の範囲について[関連資料]」(社会保障審議会年金部会経済前提専門委員会,2008年11月11日)
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2008/11/dl/s1111-5d.pdf
社会保障審議会年金部会経済前提専門委員会の議事録,資料等
http://www.mhlw.go.jp/shingi/hosho.html#n-keizai
「運用利回りの範囲について(検討結果の報告)」(社会保障審議会年金資金運用分科会,2003年8月17日)
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2003/08/s0827-9.html
「40年国債利回りを公的年金予測の前提に」(鈴木亘)
http://blogs.yahoo.co.jp/kqsmr859/22029502.html
医療・介護保険財政モデル・ホームページ
https://iwmtyss.com/HLIModel/index.html