岩本康志のブログ

経済,財政の話題を折に触れて取り上げます。

2009年04月

Yahoo! ブログから引っ越しました。

小学生は平成より先に昭和を学びます

 今日は昭和の日。
 以前に子どもの教科書を見て気づいたことですが,学年別漢字配当表によると,「昭」,「和」,「平」は小学3年生で,「成」は4年生で習うことになっています。
 つまり,3年生は「昭和」は読めるが,「平成」は読めません。「昭」は,日常生活では昭和に関係すること以外にはまず使いません。つまり,小学生の漢字の学習では「昭和」を「平成」より優先させているわけです。今は「平成」の方が使用頻度が高いと思うのですが,なぜこうなっているのかは,不勉強でその理由を知りません。なぜでしょう。

15歳未満の脳死の扱い

 現行の臓器移植法の一番の課題は,15歳未満の脳死後の臓器提供がされないことである。
 現行制度は,脳死後の臓器移植を本人の自己決定に沿うものとすることで,脳死をめぐる意見の違いを乗り越えた。臓器提供の意思表示をした者からの提供に限られるため,判断能力がないと見なされる15歳未満からの臓器提供の道が閉ざされる。
 これまで自己決定の問題は真剣に議論されたが,まずは自己決定する人を念頭に置くので,自己決定しない人や判断能力がないとされる子どもについての議論が手薄になりがちである。しかしいまは,自己決定の議論を足場にして,自己決定できない・しない人の扱いについて考えを深めることが必要とされている。
 前のブログ記事「脳死後の臓器提供を増やす方法」では,臓器提供の意思表示制度を,特別に行動を起こさない状態(デフォルト)をどう選択するかの政策問題として扱い,デフォルトの選び方で政策の帰結が変わってしまうことを指摘している。つまり,意思表示しないことを,臓器提供する意思とみなすか,しない意思とみなすかの違いで,臓器の提供に大きな違いがでるのである。
 今後は渡航移植が難しくなり,移植手術を必要とする子どもがますます助かりにくくなると予想されることから,できるだけ早期に国会で結論を得ることが必要だ。前の記事を書いた動機もそこにあったのだが,子どもの扱いは表に出てこなかったので,この記事で補足したい。前の記事を未読の方は,そちらを先に読んでいただきたい。

 脳死について賛否両論があるなかで,短時間で合意するためには,問題となるところに議論をしぼるのが,通常は得策である。現行法から最小限の修正で15歳未満の臓器提供への道を開くとすれば,15歳未満の脳死者については家族の同意によって臓器提供できるようにすることが考えられる。
 しかし,そこだけを変更すると,15歳の前後で扱いが大きく変わってしまう。つまり,15歳未満で脳死になると,家族は臓器提供の可否の判断を求められるが,15歳以上で脳死になると,本人の意思表示がない段階で臓器提供しないと結論が出る。
 しかし,14歳には難しいから判断させないという状態と,15歳の誕生日を迎えて,臓器提供カードを入手して意思表示することをしないでいる状態に,どれほど本人の内面的な違いがあるだろうか。
 いや,大人になっても,問題がわからない,忙しくてよく考えていない,面倒くさい,といった理由で自己決定しない状態と,あまり違いがないとも考えられる。したがって,本人の意思表示なしで,家族の同意で臓器提供できるとするならば,15歳未満だけではなく,すべての年齢で同じ扱いにしないと,制度の断絶が顕になる。
 現行制度の論理構成では15歳未満の臓器提供がないことが必然的に導かれることの裏返しとして,15歳未満の扱いをひっくり返すなら,全部をひっくり返さないといけないのである。

 すべての年齢で本人の意思表示がない場合,家族の同意があれば臓器提供される制度というのは,これまで国会で議論されてきた3案のうちのA案に近い。
 A案は脳死を人の死とする立場と一般には理解されている。「脳死=死」をデフォルトとして,そこから離脱するオプションを認める場合には,自己決定した人はそれぞれの意思に沿って扱われ,そうでない人が脳死した場合には,家族の同意があれば臓器提供される。
「脳死=死」を原則とすることが脳死反対論者の同意を得ることを難しくしているが,じつは本当の争点はそこにはない。現行法の考え方に近い「臓器提供する場合のみ脳死を死とする」ことをデフォルトとし,そこから離脱するオプション(脳死を死としない)を認めるとした場合も,臓器移植に限ると帰結は同じである(臓器移植以外での脳死者の扱いには違いが出る)。このデフォルトは現行法とは微妙に違っているのだが,一見したぐらいではわからないくらいの差なので,これに対する反発は,「脳死=死」に対する反発よりも小さいことが期待できる。もし臓器移植に限って早く合意を得ることが大事で,「脳死=死」を原則としないことで脳死反対論者の合意が得られるなら,今はその道を探ってもいいのではないか,というのが私の考えである。

 この案について,脳死後の臓器移植に反対する立場からの批判について考えてみよう。
 まず,「臓器提供すると意思表示していないのに,臓器が提供されてしまうなんて恐ろしい」という批判がある。そう発言する人は大真面目のようだが,これは有効な批判になっていない。この批判には,同じ理屈を使って「現行制度では,臓器提供しないと意思表示していないのに,臓器が提供されないなんて恐ろしい」と言い返すことができるからである。両者の主張に優劣はなく,何をデフォルトとするかは別の論理から決めるべき問題である。どちらの帰結が社会全体の利益をより高めるかの価値判断が重要になる。
 また,医療従事者が,意思表示していない人をわざと脳死に誘導して,臓器提供させる危険がある,という批判がある。そもそも全員に共通する「生きたい」という意思が尊重されないことになるので,これを防ぐことは必要だ。日本の移植医療の歴史が和田移植の悲劇を背負っていることから,医療従事者への不信感はとくに強いのかもしれない。が,医療従事者が患者の利益を損なう行動をとる危険は医療一般に生じる可能性があり,臓器移植固有の問題ではない。患者の権利保護や監視体制の整備等,医療行為一般でとられる対応策を適用するべきであろう。提供臓器数の大幅な低下という費用を払わなければいけない理由はないだろう。

(関係する過去記事)
脳死後の臓器提供を増やす方法

過去最大の失敗

 政府・与党は10日,追加の経済対策「経済危機対策」を決定した。財政支出15.4兆円,事業規模56.8兆円はいずれも過去最大。
 1990年代には,過去最大をうたった景気対策がたびたび実施されたが,巨額の財政出動に比する効果をあげられず,「失敗」と評価されている。この評価は経済学的なものではなく,景気対策を支持した政治家と国民が期待する成果をあげられなかったという,政治的なものである。このときの財政政策は経済学的に期待される程度の効果はあったと私は考えているが,一般にはそれ以上の効果があると期待されて,それが裏切られたということだ。
 また,「過去最大」という量が優先され,無駄な支出をしたという批判を浴びたことが,失敗のもうひとつの要素である。「現場から見た補正予算」でのべたように,巨額の補正予算を無駄なく編成するのは至難の業だ。
 今回の対策も,経済学的に予想される以上の効果を期待していること,量にこだわったこと,の2つの構造を継承しているので,失敗しない理由を探すことが難しい。

 政策の効果を粗く計算してみよう。
 3月に発表されたESPフォーキャスト調査によれば,民間調査機関による経済成長率の予測値平均は,2009年度で-4.11%,2010年度が1.11%になっている。同月に経済協力開発機構(OECD)が発表した予測では,2009年(こちらは暦年)が-6.6%,2010年が-0.5%である。どちらも,今回の追加経済対策の効果は織り込んでいない。
 2009年度にGDPの2%の財政支出を拡大した場合の効果を織り込んでみよう。乗数を1.5と考えて,初年度に1,次年度に0.5の効果が現れると仮定してみると,2009年度にGDPの水準を2%引き上げ,2010年度に1%引き上げる効果になる。対策は2009年度の成長率は引き上げるが,2010年度は水準引き上げ効果が前年より弱まるから,成長率を引き「下げる」ことになる。これを,ESPフォーキャスト調査に当てはめると,2009年度は-2%程度,2010年度はゼロ成長に近くなる。専門家は引き上げ効果(対策がある場合とない場合の差)で議論するが,対策がない状態はそもそも実現されないので,そのような状態を仮想的に考える作業は誰もがすぐできることではない。国民の多くは,実現された状態だけで政策を評価することになる。2010年度には景気は回復するものとして,国民がプラス2%成長ぐらいを期待していると,今回の対策は効果がなかったという烙印を押されかねない。
 一時的な財政支出拡大の効果は一時的な所得拡大であり,景気の落ち込みを部分的に相殺することが目的だ。喩えるならば,痛み止めである。景気の回復は民間の自律的な成長によってもたらされる。ところが,財政出動に積極的な政治家は,財政出動で成長率が回復すると信じているようである。今回の対策でも成長戦略が大きな比重を占めた。しかし,一時的な支出で経済成長(つまりは恒久的な所得増)が実現するような事業があるならば,何も景気が悪いときだけ補正予算で実行することはない。どんなときでも当初予算で実行すべきものだが,そういう事業は希少である。補正予算編成の際に急いでかき集めるときだけ,すばらしいアイデアがぽんぽんと湧いてくるわけではない。
 結局,景気対策で経済成長率が高まるという期待がそもそも経済学的におかしいのであり,期待は裏切られるだろう。痛み止めで,前より健康にはなれない。

 財政出動は経済学の合理性だけで決まるものでなく,政治過程の産物である。景気が悪くなり,失業者が増えているときに,政府が何もしないのは政治的に困難である。しかしながら,事業を精査して有益なものだけにしぼるべきだ。規模が小さくなっても,無益な事業をすることは国民のためにならない,と政府が説明して理解を求める方が得策であろう。

(注)
 今回の対策が「成功」の評価を得るとすれば,政策以外の要因で景気がよくなることで,景気対策の効果が出たと皆が錯覚する事態が起こったときであろう。悩ましいのは,経済学的にそれに反論するのが難しいことである。なぜなら,同時に生じるさまざまな要因が経済に影響するのであり,政策の効果だけをそこから抽出することが難しいからである。

(参考)
ESPフォーキャスト調査
http://www.epa.or.jp/esp/fcst/fcst.html
「3月調査結果概要」
http://www.epa.or.jp/esp/fcst/fcst0903s.pdf

OECD, Interim Economic Outlook, March 2009
http://www.oecd.org/document/59/0,3343,en_2649_34109_42234619_1_1_1_37443,00.html

(関係する過去記事)
追加経済対策は公共事業か,社会保障か

現場から見た補正予算

日経ネットPLUS「財政支出の価値が重要な論点に」

 6日の日本経済新聞・経済教室欄の土居丈朗慶大教授の「ケインズ政策は復活したか」へのコメント「財政支出の価値が重要な論点に」を日経ネットPLUSに寄稿しました。
「ケインズ『新学派』巡り、岩本東大教授が異論」と派手に紹介されてしまいましたが,内容は学術的な議論のやりとりです。

 以下は,拙稿の冒頭です。
「我が国での財政政策の議論が現代マクロ経済学の進歩に十分に追い付いていないことが、土居教授の寄稿から読み取れる。これは全く同感である。穴を掘って埋め直してでも国内総生産(GDP)ギャップを埋めるべきだと考える時代遅れの人たちには退場してもらった方が議論は生産的になり、政策を間違える余地も減るだろう。
 ただし、ニューケインジアンの性格について、土居教授が(1)供給中心の世界観である(2)財政政策の有効性は限定的と考える(3)オバマ政権をブレーンとして支える--としたことは私の意見と少し異なる。」

 続きは,日経ネットPLUSでご覧ください。
http://netplus.nikkei.co.jp/
 日経ネットPLUSは,新聞媒体と連動して,より付加価値の高い情報を提供するサイトだそうです。会員登録が必要ですが,無料です。

現場から見た補正予算

 財政については,研究者として見ていると同時に,国立大学教員として組織の末端の現場で,その実態を見ている。
 今回の記事では,6日に麻生首相が指示を出した2009年度の補正予算に関係して,私の周りで起こった出来事を紹介したい。これから査定がある話なので,細部をぼかした表現としたところはご容赦いただきたい。

 3月に,学内で私が関係する,ある組織から,補正予算向けのアイデアを募るメールが回ってきた。大学本部が素案を募っている段階だが,当日が締切とあわただしいのはいつものことである。補正予算はじっくり議論している暇がなく,立案作業はつねに急かされて進行する。
 結局,その組織から出た案は,柏キャンパスに新しいセンターを設立して,その施設整備を予算要求するものであった。問題なのは,現状の基盤がない状態からセンターを作る構想であって,建物・設備が整備されたとして,その後の人件費と運営費をどう工面するのか,まったく見通しがないことである。「追加経済対策は公共事業か,社会保障か」(http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/25217820.html )で説明したように,景気対策は一時的な支出である。補正予算は1回限りの支出であって,センター設立後に毎年必要な経費の面倒は見てもらえない。残念ながら,景気対策の性格を理解している人の方が少ないだろうから,こういう種類の提案はあちこちで出てしまうのだろう。
 その後,私が出席した会合で,この案が話題にのぼった。私は,自分の考えに沿って,水を差すようなことをいわざるを得ない。その場では,こういう案は補正予算には向かない,後の経費を考えないと大変なことになる(経費が続かず廃墟になるか,無理に経費を工面することで他の事業に歪みが出る)ことを指摘した。
 大学では,施設整備の需要はいつもあちこちで生じている。私が所属する経済学研究科と公共政策大学院も手狭で困っている。当初予算の施設整備費は限られているので,どこの大学でも長期計画を作って,手狭なところを順番に整備していっている。補正予算が回してもらえるなら,順番待ちのものを繰り上げて整備するのがよいというのが私の意見だ。手狭なのは今の活動が順調なことの表れだから,無駄遣いする危険は抑えられる。
 ところが,補正予算では「目玉」が要求される。単に手狭な部署にスペースを提供するような地味な事業よりも,人々の注目を引く事業を求める力が働いているように,私には見える。上のセンター構想は目玉になる素質がありそうで,少し前に入った情報だと,もしかして実現するかもしれない。かりに予算がついたならば,その後の経費はどうするつもりなのだろうか。

 国の財政事情は厳しいので,当初予算で賄われる恒常的な経費にはずっと削減の圧力がかかっている(文教科学予算はまだ恵まれている方だが)。また,当初予算は1年以上かけて,予算をつけるか否かが議論される。そうした状況で教育研究活動をやりくりしているときに突然,何か大きな事業はないか,すぐに案を出せ,経費は大きいほどいい,ただし1回限り,という調子で話が舞い込むのが補正予算である。大学敷地内に施設を建設するのは,用地を買収しなくていいので,早期に執行できる公共事業として補正予算では重宝される(予算の正確な用語では公共事業費ではなく施設費と呼ばれ,公共投資関係費に含まれる)。そして,どたばたと巨額の使途が決まっていく。
 巨額の補正予算が何年か続くと,当初予算と補正予算の二重基準で現場は大きく撹乱されてしまう。現場で混乱を目撃している人間としては,個人で何とかできる範囲には限界があり,やりきれなさを感じてしまう。
「財政政策のマーフィー式採点法(その1)」(http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/24388010.html ),「財政政策のマーフィー式採点法(その2)」(http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/24401000.html )での議論が示すように,財政出動が有効なものとなるには,財政支出そのものに価値があることが非常に重要である。現在で必要な財政出動の規模を決めるのは,GDPギャップの大きさではなく,有益な使途がどれだけあるかだろう。

(参考)
「公共投資関係予算(1)」(2004年度予算政府案)
http://www.mof.go.jp/seifuan16/yosan009-7_a.pdf
2004年度までは「公共投資関係予算」,2005年度以降は「公共事業関係予算」として資料が作られている。

(関係する過去記事)
追加経済対策は公共事業か,社会保障か
http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/25217820.html

財政政策のマーフィー式採点法(その1)
http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/24388010.html

財政政策のマーフィー式採点法(その2)
http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/24401000.html
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