デフレ脱却のための非伝統的金融政策の手段についてブログで色々書いていたが(「リフレ政策」に対する私見(2010年4月時点のまとめと補足)」に一覧がある),2月に日本でも導入された「マイナス金利」については触れていなかったので,ここで取り上げたい。ちょうど『マクロ経済学』(有斐閣刊)の新版が出版されたところだが,改訂時にはマイナス金利の導入は予想もしていなかったので,筆者の担当箇所(ニューケイジンアン・モデルによる安定化政策)では名目金利はゼロ以下にならないものとして扱っていた。今回の記事は,その補足として,マイナス金利政策を理論的に見ていく。マイナス金利政策を理解するには,「金融資産間に働く裁定」(人々は利ザヤを抜こうとする。その結果,同種の資産には同じ金利がつく)をつねに頭に置いておくことが大事である。

 まず,政策金利をゼロ以下にできないと言う「ゼロ金利制約」の意味をあらためて確認する。現金(紙幣と硬貨)は金利がつかない(ゼロ金利)なので,それと同種の金融資産の金利がマイナスになると,誰もそれを保有しようとしなくなり,市場から消えてしまう。この世に存在しない金融資産の金利がマイナスであるといっても,そのような金利は存在しないのと同じことである。存在できる範囲での金利がゼロ以上であるから,金利の下限はゼロということになる。これが,ゼロ金利制約である。
 多くの国と同様に,日本での政策金利は銀行間で準備預金を融通し合う金利(無担保コールレート(オーバーナイト物))になる。銀行は,毎日の決済によるバランシートの増減を準備預金と現金をバッファーにして調整する。伝統的に教科書に書かれている説明は準備預金に利子がつかなかった時代を念頭に置いている。すると現金と準備の金利が同じなので,管理が少しだけ便利な準備が有利になるので,現金はそれを保有する固有の事情に応じて最小限保有するものと考えて,現金を捨象する。そして,準備(正確には法定準備を超える超過準備)をどれだけ保有するかは,短期の資産運用として,準備預金と短期の金融資産(ここでは短期国債を念頭に置く)をどのように振り分けるかを考えることで決まる。短期国債ではなく準備をもつことで短期金利分だけの運用益が得られなくなることが,貨幣保有の機会費用である。この機会費用が低いと,準備の需要が増える。
 準備預金に付利されると,貨幣保有の機会費用は「短期金利-準備預金金利」になる。この場合,「ゼロ金利制約」とは「短期金利-準備預金金利」がゼロ以下にならないということに変化する。ここで,準備預金金利をマイナスにすると,上の「現金と準備の金利が同じなので,管理が少しだけ便利な準備が有利」が,「現金の金利が高いので,現金が有利」に変わってしまう。銀行は準備預金に預けるよりは,現金で自行の金庫に現金を保管する方が,運用益は上回る。この資金の移動が完全におこなわれれば,超過準備は消滅して,マイナスの準備預金金利は意味がなくなる。実際,今回の日銀の政策でマイナス金利が成立するのは,このような資金移動が完全に働かないからである。大きくは,2つの理由がある。
 第1の理由は,準備預金の金利は0.1%,0%,-0.1%[2016年4月23日誤記修正]の3段階の構造をしていることに関係している。日銀が用意したQ&A「(参考)本日の決定のポイント」で説明されているように,「金融機関の現金保有額が大きく増加した場合は、その増加額を当座預金でゼロ金利が適用される部分から控除し、マイナス金利がかかる」ようにしている。つまり,銀行がマイナス金利を避けようと資金を現金に移す行動をしても,マイナス金利がかかる分を残すようにしている。現金保有の動機を日銀が判断することになるわけだが,実際にそのようなことが起こるのかは,非常に興味深い。
 もう一つの理由は,現金の管理は大変なので,少々のマイナス金利でも準備預金が有利と考えるからである。これは程度の問題であり,より金利が低くなる(絶対値が大きくなる)と,現金への代替が起こる。

 本来の「マイナス金利」政策は,現金の金利をマイナスにしようというものである。現金の金利が年マイナス5%になれば(1万円札が1年経てば9,950円になる),政策金利もマイナス5%まで下げられる。現金の金利も下がっていれば,準備預金金利を下げても,超過準備が消滅するような力は働かない。0.3%から0.1%に利下げするのと同じように,0.1%から-0.1%に利下げできると考えればよい。利下げの効果が金利水準に依存しないなら,0.2%分の利下げの効果は同じとなる。実際には効果の大きさが金利水準で違うことはあり得るが,現金の金利をマイナスにして試したことがない現状では,効果が違うかどうかはよくわからない。
 日本銀行が2月に実際に導入したのは,現金の金利はゼロのままで政策金利をマイナスにする,ある意味「不完全なマイナス金利」政策である。これは,すでにマイナス金利を導入した他国でも同様である。不完全なマイナス金利政策が実行されるのは,本来のマイナス金利政策を実行することがとても難しいからである。本当に実行しようとすれば,途方もない費用がかかる(現金が完全に電子化されれば,実行費用が下がる余地があるが,技術はまだそこまで到達していない)。
 不完全なマイナス金利政策の効果は,本来のマイナス金利政策の利下げ効果に,現金と近い金融資産に対して消滅に向かう力が働くことが加味される。金融資産が消滅すると市場が消滅し,それに事業を依存する企業も消滅するか,存亡の淵に立たされる。金融資産が消滅しなくても,市場は存亡の淵に立たされる。現に,日銀の発表直後にMMFの募集が停止された。銀行も直ちに存亡の危機ではないが,収益低下の懸念から株価が大幅に下落した。あまり好ましいとは考えられない効果であるので,「副作用」と呼ぶことにしよう。つまり,そうした副作用付きマイナス金利政策が実施された。
 市場や企業への副作用の程度は,現金との裁定がどの程度働くかで決まる。現金との裁定からは遠い外国為替取引によってマイナス金利で調達できた資金は,それよりも高いマイナス金利(絶対値が小さい)で運用できれば利ザヤがあるので,これまでも短期金利がマイナスになったことはあった。しかし,MMFや銀行は,マイナス金利での運用を余儀なくされる資金の調達が現金と近い(家計が現金で保有するか,MMFを購入するないし銀行に預金に選択で意思決定をしている)ので,調達する資金の金利をゼロ以下にすることが困難なことが深刻な問題になる。

 黒田総裁は,更なる利下げによって追加緩和の手段があると言っているが,そうすると現金との金利差が大きくなって,現金との裁定との影響を受ける範囲が広がり,副作用が大きくなるだろう。どんどん進めれば,銀行をつぶしてでもデフレ脱却を目指すのか,という極端な話になってしまう。本来のマイナス金利は実施費用が下がれば選択肢になり得るが,副作用付きマイナス金利は,基本的には無理筋な政策である。