岩本康志のブログ

経済,財政の話題を折に触れて取り上げます。

2020年05月

Yahoo! ブログから引っ越しました。

接触8割削減の不整合

 公衆衛生的対策の効果を分析するために、感染の発生場所を詳細に記述するモデルが使われている。Ferguson et al. (2006)によるインフルエンザ対策の分析では、米国でのインフルエンザウイルス感染が、30%は家庭内、33%は地域(general community)、37%は学校と職場で起こると想定していた。Ferguson et al. (2020)は、この仮定を新型コロナウイルス感染にも当てはめ、公衆衛生対策がこれらの場所での接触頻度を削減して、実効再生産数を減少させる効果をシミュレーション分析した。その対策の設定は、新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」(2020年5月1日)の「参考2」資料に訳されているが、家庭外の機会削減と家庭内の機会「増加」に分けて整理すると、以下のようになる。外出を控えると家庭内の接触が増える、というごく当たり前のことを想定していることがわかる。

 

家庭外接触減少

家庭内接触増加

遵守率

有症状者の自宅隔離

家庭外75%(有症状者)

 

70

自発的な家庭隔離

地域75%(有症状者の家族)

100%

50

70歳以上の社会的距離戦略

職場50%、その他75

25%

75

全国民の社会的距離戦略

地域75%、職場25

25%

 

学校と大学の閉鎖

大学以外100%、大学75%、地域-25%(生徒)

50%(生徒)

 

(出典)新型コロナウイルス感染症対策専門家会議「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」(2020年5月1日)参考2より筆者作成。

 感染対策とその経済的被害とのトレードオフを分析したEichenbaum, Rebelo and Trabandt (2020a, b)、Jones, Philippon and Venkateswaran (2020)は、このFerguson et al. (2020)の設定に沿いながら、経済活動と感染機会を関係づけている。Eichenbaum, Rebelo and Trabandt (2020a, b)は、感染機会を家庭内、地域、学校・職場で1/3ずつとし、地域での接触の半分が消費と関係し、学校・職場での接触の半分が労働供給と関係していると設定した。合計すると、最大限の抑制で(経済活動全停止なので非現実的だが)接触機会を1/3削減ができることになる。家庭内の接触は増えも減りもしないと想定したので、これによって実効再生産数が1/3減少する。消費と労働供給が比例関係にあると、経済活動をcの割合だけ抑制すると、減少した感染機会は元の感染機会と比較して、
\[\frac{2}{3}+\frac{1}{3}(1-c)^2\]
になるという関係が想定される。接触する者同士が活動を制限するので、抑制効果は自乗で働く。
 一方、Jones, Philippon and Venkateswaran (2020)は、消費の抑制で地域の接触を最大ですべて、労働供給の抑制で学校・職場での接触を最大ですべて削減できると想定した。経済活動の抑制で家庭内の接触は変化しない。両方を合わせると最大限の抑制で接触機会の2/3の削減ができるという想定になる。これは、減少した感染機会は元の感染機会の
\[\frac{1}{3}+\frac{2}{3}(1-c)^2\]
となる。以上の想定は、公衆衛生的対策で実効再生産数を抑制するにしても、(定数項で示された)「岩盤」が存在して、いくらでも小さくすることはできないということだ。
 実効再生産数に関係する他の変数に大きな動きがなければ、実効再生産数とcをこれと同じ関係で結び付けることができる。人々の外出状況を見るために、日次の人流データに注目が集まったが、それをcの代理変数と考えると、3月下旬からの両者の低下は関係がありそうにみえる。ただし、因果関係があるかどうかは、きちんとした検証が必要だ。

 4月7日の緊急事態宣言以降、人と人との接触機会を8割削減することが目指された。同日の記者会見で、安倍首相は「人と人との接触機会を最低7割、極力8割削減する」ことに言及した。
 以下のTwitterにある動画の西浦博教授の説明では、実効再生産数を2.5から1.0まで6割削減したいが、削減できない部分があるため、人口全体に接触機会の8割削減を要請することが必要としている。遵守率が75%で、80%×75%で60%の削減が達成される、という勘定だ。


 上の動画のホワイトボードに示されているように、接触削減によって減少した実効再生産数は元の実効再生産数の、
\[1-c\]
となると想定している(注)。ここでは、「岩盤」がなく、接触機会を削減できると考えている。

(注)ここでは抑制効果が自乗にならないのは、接触機会に別の想定を置いているからで、どちらの想定もあり得る。

 なお、4月22日の専門家会議の「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」では、接触機会の8割削減で実効再生産数が8割減少(2.5から0.5になる)する図(3頁)が示されており、遵守率が100%に変更されたようだ。

接触8割削減の不整合

 この続きの動画では、一般国民は例えばこれまで1日で10人に会っていたら2人に減らせないだろうか、と呼びかけている。この動画を見ると、外出して会う人数が10人だと思わないだろうか。家族も勘定に入れると、4人家族なら、最低でも家族のうちの1人とは会わないようにしないといけない。

 緊急事態宣言を受けて改定された「新型コロナウイルス感染症対策の基本的対処方針」を見ると、以前の版にもあった文章であるが「外出自粛の要請等の接触機会の低減を組み合わせて実施する」(1頁)と書かれている。霞が関用語では、「等」があれば何でも含まれるのだが、接触削減の手段には外出自粛に注目が集まった。
 4月22日提言に合わせて専門家会議から出された「人との接触を8割減らす、10のポイント」を見ても、家庭内の接触には触れられていない。人流データが注目されたこともあり、一般の関心もほぼ外出自粛に集まった。しかし、Ferguson et al. (2020)等の設定では、外出の自粛は家庭内接触を増やすので、外出が8割自粛されても接触機会は8割まで削減されない。
 結局、4月22日提言の目論見(接触8割削減で実効再生産数が8割低下する)通りにはならない理由が、5月1日提言の「参考2」に書かれていることになる。何をしたかったのだろう。

(参考文献)
Eichenbaum, Martin S., Sergio Rebelo and Mathias Trabandt (2020a), "The Macroeconomics of Epidemics," NBER Working Paper No. 26882.

Eichenbaum, Martin S., Sergio Rebelo and Mathias Trabandt (2020b), “The Macroeconomics of Testing and Quarantining,” NBER Working Paper No. 27104.

Ferguson, Neil M., et al. (2006). "Strategies for Mitigating an Influenza Pandemic." Nature, 442: 448-452.

Ferguson, Neil M. et al. (2020), “Impact of Non-pharmaceutical Interventions (NPIs) to Reduce COVID-19 Mortality and Healthcare Demand.”

Jones, Callum J., Thomas Philippon and Venky Venkateswaran (2020), "Optimal Mitigation Policies in a Pandemic: Social Distancing and Working from Home." NBER Working Paper Series No. 26984.

(参考)
「新型コロナウイルス感染症対策の基本的対処方針」(2020年3月28日(2020年4月7日変更)、新型コロナウイルス感染症対策本部決定)

「新型コロナウイルス感染症に関する安倍内閣総理大臣記者会見」(2020年4月7日)

「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」(新型コロナウイルス感染症対策専門家会議、2020年4月22日)

「人との接触を8割減らす、10のポイント」(新型コロナウイルス感染症対策専門家会議、2020年4月22日)

「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」(新型コロナウイルス感染症対策専門家会議、2020年5月1日)

日本はなぜ新型コロナウイルス感染症の流行を抑え込むことができたのか

 筆者なりの考えはあったのだが、流行の最中に専門外の人間が発言することは抑えていたところ、専門家である関西大学の高鳥毛敏雄教授が、その核心を説明してくれた。同感の至りであり、非常に示唆に富む記事なので、ぜひご一読いただきたい。


 高鳥毛教授の説明の後には蛇足のようになってしまうが、流行を抑え込めた理由の筆者なりの考えは、①日本の基本再生産数(何もしなかったら感染が拡大する速度の指標)は1を超えるものの感染爆発を起こした国に比較して低かったこと、②積極的疫学調査(contact tracing)が実効再生産数を1以下にすることに成功した、の2つである。前者は、文化的・社会的・生物学的要因なのか、特定は難しい。色々なことが複合しているのかもしれない。後者は、高鳥毛教授の解説する通り、結核が蔓延する日本で形成された保健所の体制によって、流行の最初期から積極的疫学調査を進められた運も手伝って、抑え込むことができたといえる。細かいところでは、3月の欧州の帰国者による感染の拡大で状況が悪化したり、3月下旬からの外出自粛(緊急事態宣言に先立つ動き)に助けられたり、という動きはあったが、根幹は上の2つである。
 ただし、保健所の体制は手放しには褒められず、一般からの批判は強かった。電話してもつながらない、PCR検査してもらえない、検査しても結果がなかなか届かない、という状況や、手書き、ファックス、電話が主体という昭和の香りが漂う手法だ。確かに、負荷をこなせない資源制約と古い技術は問題であり、改善を図らなければいけない。しかし、現行の体制でも抑え込むことができたのは、積極的疫学調査は有効な方法であるからだ。感染は、感染者と未感染者の接触で生じる。感染者を迅速に探し出して、感染機会を減らすことの効果は大きい。
 大部分が免疫のない状況では、流行の第2波を警戒する必要がある。すでに感染症対策による経済的被害が大きく、経済に負担をかける感染症対策を取り続けることは不可能だ。もし流行に季節性があるならば、今度の冬は第1波よりもずっと長い期間、流行を抑え込まないといけない。したがって、医療側への負荷は第1波より大きい。『新型コロナウイルス感染症による医療崩壊』で述べたような、現在の医療資源の使い方の問題を改善しないと対応できない。保健所の能力増強と医療機関の感染症対応能力の向上が何よりも優先課題である。

「日本モデル」あるいは、より改善された「日本モデル」は輸出できるかというと、それは難しい。上述した両方の理由は、ともに時間をかけて日本で形成された「制度」であり、一朝一夕で他の国に移植できるものではない。逆に、外国のモデルを安直に日本に移植しようとすることも注意しなければいけない。
 ここまでの経験は、危機対応では事前に積み重ねられてきた体制が重要である、という危機管理の本質をあらためて確認することだった。危機が起こって慌てて考え出した対策には良くて効果がないか、悪くて混乱を招くものが多い。アベノマスクが典型例であるが、その他にも、そうした対策は新たな経済対策のなかにあふれている。そうした対策の末路は見えている。ルーチン外の業務で動く10万円給付金も雇用調整助成金も持続化給付金も滞っているが、ルーチンの業務である自動車税の納付書は例年通りに届く。国も地方も感染防止策で機能が低下しているなか、巨大な業務を迅速にこなさなければいけないとなれば、事務処理能力がボトルネックになることは明白であり、危機対応も事前に整備され、ルーチン化されていることが望ましい。実際、そのために新型インフルエンザ等対策特別措置法が整備されているのであり、『自粛要請に関連する補償のあり方』で述べたように、その補償の枠組みをまずは十分に機能させるべきだった。
 第2波に備える基本は、地道な王道を強化し、見栄えだけのスタンドプレーを排除することだ。

感染症流行の被害想定

 防災事業の政策評価では、災害の被害を想定することから始まる。そして、その被害を避けるための費用と比較して、その事業を実施すべきかどうかを考える。例えば河川の堤防工事では、まず既存の堤防を超える洪水の頻度(評価期間での確率分布で与える)を何等かのモデルに基づき想定して、洪水の際の浸水地域を特定し、そこにある財産価値を推計して、「確率×洪水の際の被害額」をもとに、被害の期待値を求める。洪水の大きさも複数種類、考慮する。堤防を強化したときに防ぐことのできる被害が、堤防工事の便益となる。
 新型コロナウイルス感染症対策も同様の考え方で評価できる。そこで、まず感染症流行の被害想定が必要だ。基本再生産数を一定としたSIRモデルに基づくと、被害想定は非常に簡単な作業になる。このモデルでシミュレーションしていくと、やがて感染が(ほぼ)止まり、感染者が限りなくゼロに近づく。そして、累積感染者(人口比で1-S∞、Sは非感染者)の収束値は、理論的に
\[logS_\infty -logS_0 +\frac{\beta}{\gamma}(1-S_\infty)=0\]
となる(導出はこの記事の末尾に示す)。ここで、S0は非感染者の初期値であり、ほぼ1に等しい。感染染者の初期値が無視できるほど小さいので、累積感染者数の収束値は基本再生産数β/γのみで決まる。数値計算で求めないといけないが、Excelでも計算できるくらいに簡単である。この解は、S∞が1より少し大きいものと、S∞が0と1の間にあるものの2つあり、意味がある解は後者である。そこで、ソルバーではS∞が1より小さいという制約を加える必要がある(感染者数がピークを迎えるSである「1/基本再生産数」より小さいという制約にしておけば、大丈夫だと思われる)。
 累積死亡者数は、累積感染者数に致死率(死亡者/感染者)を乗じる計算法が簡便だが、それを使うと、感染症流行の人的被害は基本再生産数と致死率の2つのパラメーターによって決まる、ということができる。そして、これまで未知の新型コロナウイルス感染症では、この2つの数字ともよくわかっていないというのが現状だ。その場合、様々なパラメーターの値について人的被害を推計して、パラメーターの不確かさが結果にどのような影響を与えるか、を考察する「感度分析」(sensitivity analysis)が非常に重要になる。
 以下は、感度分析の一つの試みである。計算は、Excelシートで行った。下の表は、その結果である(Excelシートの結果をそのまま使っている)。まず、基本再生産数は1.1、1.5、2.0、2.5、3.0、3.5を設定した。基本再生産数が1以下では感染は流行しないので、最低値を1.1としている。1以下だと、ここでの分析そのものが意味を持たない。感染拡大を起こした欧米諸国のシミュレーションの設定値をカバーしようとているので、日本には妥当しそうにもない高い数値が多い。

 感染症の被害想定
(単位:万人)

 累積感染者数の推計では、基本再生産数が2.5では最終的に人口の89%が感染する。基本再生産数が動いたときの累積感染者数の動きは、基本再生産数が小さいほど大きい。2.5から3.0へ上昇すると累積感染者数は5ポイント上昇するが、1.1から1.5への上昇では40ポイントも上昇する。したがって、基本再生産数が1に近いと、被害想定は格段に不確かさが高まる。
 死亡者数の推計での致死率は0.37%、0.5%、1%、1.5%、2%を設定した。各国の統計で把握されていない無症状者・有症状者が多くいるために、致死率の不確かさも非常に大きい。こちらも欧米諸国のシミュレーションでの設定をカバーするようにした。感染爆発で医療崩壊に至ると、致死率も高まる。そこで、1%よりも高い値も設定した。
 基本再生産数が2.5で致死率が0.37%のときに、死亡者数は42万人(もう1桁とると41.6万人)という、喧伝されている数字になる。まったくの偶然だろうが、0.37%という致死率は、ドイツのガンゲルトの住民を対象にした抗体調査で推計されたことがある。これは、統計で把握されていない感染者も含めた致死率の推計値として注目されたものである。
「何もしなければx万人が死ぬ」という場合、対策をすればこのx万人が不死身になるわけではない。x万人はやがて別の理由で死ぬ。そこで、人的被害を人数で計測するのではなく、死亡者の余命(感染しなければ生きられた期間)で計測する方法もある。この場合、「何もしなければx万人の余命が平均y年短縮した」というのが、被害の表現になる。その裏返しとして、「x万人を平均y年長生きさせた」というのが、対策の効果になる。

 感度分析は、どれが正しい推計値かを決める作業ではない。その意義は、まず、現状で被害想定がどれだけ不確かかを知ることができる。つぎに、どのパラメーターの推計の精度を高めると、目的とする推計の精度が高まるかを知ることができ、どのパラメーターの推計制度の改善が望まれるかを明らかにしてくれる。なお、ここではSIRモデルに基づいたが、SIRモデルの予測が正しいかどうかは、別の問題である。他のモデルによる予測も可能ならば、モデル間の比較の作業も有益だろう。

(Excelシート)
 ご自身で感度分析をしてみたい方のために、この記事で使用したExcelシートを公開します。
https://iwmtyss.com/Docs/2020/COVID-19_HumanDamageScenarios.xlsx
「Parameters」シートにある、各シナリオは、基本再生産数の設定のもとにソルバーによって累積感染者の収束値を求めています。非感染者の初期値は1として、収束値は1以外の解を求めます。各シナリオの結果が、「シナリオ ピボットテーブル」に示されています。
 ソルバーでの収束計算で解が見つけられない場合、解がどの辺にあるかを示すためのシートが「Graph」と「GraphData」です。制約がない場合、解が2つあることもグラフからわかります。
 ソルバーがインストールされていない場合は、どこかで手順を調べて、ソルバーをインストールしてください。なお、シートについてのサポートは致しかねますので、ご了承ください。

(累積感染者数の収束値の導出)
SIRモデルでの未感染者の動学
\[\frac{dS}{dt}=-\beta SI\]
は、
\[\frac{dlogS}{dt}=-\beta I\]
と変形できる。これと回復者と死亡者Rの動学
\[\frac{dR}{dt}=-\gamma I\]
を合わせると、
\[\frac{dlogS}{dR}=-\frac{\beta}{\gamma}\]
が得られる。初期値ではR=0となるとして、Rについて積分すると、
\[logS_\infty -logS_0 =-\frac{\beta}{\gamma}R\]
となる。S0は非感染者の初期値である。収束して感染者IがいなくなるとR=1-Sとなることから、
\[logS_\infty -logS_0 +\frac{\beta}{\gamma}(1-S_\infty)=0\]
となる。

(参考)
Streeck, Hendrik, et al. (2020), “Vorläufiges Ergebnis und Schlussfolgerungen der COVID-19 Case-ClusterStudy (Gemeinde Gangelt).”
https://www.land.nrw/sites/default/files/asset/document/zwischenergebnis_covid19_case_study_gangelt_0.pdf

「新型コロナ、2割が無症状 感染者実数 公式発表の10倍の可能性 ドイツ」AFPBB News、2020年5月5日

感染症対策の評価に用いる統計的生命価値

 感染症対策のための経済活動の制限を緩和すると、再び感染が拡大して人的被害が増える可能性がある。生命と経済にはトレードオフがあるが、両者は直接には比較できない。しかし、経済学で望ましい感染症対策を設計しようとする研究では、「統計的生命価値」(value of a statistical life)を使って、両者を比較可能(集計可能)な形にしている(Acemoglu et al. 2020、Alvarez, Argente and Lippi 2020等)。
 統計的生命価値は、公共事業、環境、食品、消費者をはじめ様々な政策分野での安全を高める(死亡リスクを低める)政策の評価に使われている(逆に、関係が深いと思われる医療分野での適用に対する抵抗が強いが、この話は長くなるので割愛する)。新型コロナウイルス感染症対策としての都市封鎖の評価を行ったGlover et al. (2020)、Gollier and Straub (2020)、Scherbina (2020)は、実用されている統計的生命価値を用いているが、Hall, Jones and Klenow (2020)、Pindyck (2020)は、感染症対策に関しては、そうした値は過大評価になると指摘している。その理由は、新型コロナウイルス感染症で考慮しなければいけないリスクは、従来の統計的生命価値が使われてきた安全対策のリスクよりも桁違いに大きいからである。その意味を見てみよう。

(数式を追うのが面倒な読者はここは読み飛ばしていい)まず、Hall, Jones and Klenow (2020)に沿って、統計的生命価値の理論的概念を簡単なモデルで示す。代表的個人は、現在の消費と将来の消費から効用を得ている。個人は消費平準化を図っていて、現在(1年間とする)と将来の1年間の消費はcで同じであると仮定する。将来の効用を割り引かないとすると、将来の効用は1年間の効用にその後の平均余命LEを乗じたものになり、代表的個人の期待効用は、
\[u(c)+u(c)LE\hspace{1em}(1)\]
と書ける。第1項が現在の効用、第2項が将来の効用の期待値である。将来の効用を貨幣価値化したものが統計的生命価値VSLである。理論分析では「統計的」の部分に込められた意味が表現されていないので、単に生命価値(value of life)と呼ぶ文献が多いが、ここでは生命価値と統計的生命価値の区別に立ち入らずに便宜上、統計的生命価値と呼んでおく。実際の数値が物価や為替レートで値が変わらないようにするため、消費に対する比率をとると、
\[\frac{VSL}{c}\equiv\frac{u(c)}{u^{\prime}(c)c}LE\hspace{1em}(2)\]
で表される。これは、貨幣価値化された1年間の効用の対消費比に平均余命を乗じたもの、とも言える。ここで、現在の死亡確率をδだけ減らし、それによって平均余命をδの割合だけ増やすために、代表的個人はいくらまで支払っていいかを考える。消費のαの割合を支払い、死亡確率が下がることで平均余命が伸びると、
\[u(1-\alpha)c)+u(c)(1+\delta)LE\hspace{1em}(3)\]
となる。(1)式と(3)式が等しくなるようなαは、
\[u(c)-u((1-\alpha)c)=u(c)\delta LE\hspace{1em}(4)\]
を満たす。(4)式の左辺をテーラー展開すると、
\[u^{\prime}(c)\alpha c=u(c)\delta LE\hspace{1em}(5)\]
となる。(5)式を整理すると、
\[\alpha=\delta\frac{u(c)}{u^{\prime}(c)c}LE=\delta\frac{VSL}{c}\hspace{1em}(6)\]
となる。(6)式に関係により、人々の選択からα、c、δが観測できれば、統計的生命価値を推計することができる。

 Hall, Jones and Klenow (2020)は、米国での統計的生命価値の典型例として、環境保護庁(EPA)の設定値である、1年間の平均余命が5年間の消費の価値がある、を紹介している。これに基づき、例えば国民の平均的な死亡確率を100万分の1引き下げる(人口1億2,600万人であれば1年間で126人の死者が減る)ような安全対策にいくらまで支出できるかを考えてみると、国民の平均余命を40年とする(死亡者の統計的生命価値は200年分の消費となる)と、平均余命の伸びは10万分の4年であり、1年間の消費の0.02%に相当する。
 この統計的生命価値の値を用いて、新型コロナウイルス感染症による致死率(死亡者/人口)が0.81%(Ferguson et al. 2020に基づく)と0.3%(Fernandez-Villaverde and Jones 2020に基づく)の場合を考えてみよう。死亡者は高齢者に偏るので、死亡者の平均余命は14.5年と計算され、統計的生命価値は72.5年分の消費となる。すると、致死率0.81%を避ける(感染症をなくす)ことには、感染者にとっては、1年間の消費の59%(0.81%×14.5×5)の価値があると計算される。
 しかし、消費をこれだけ犠牲にすることの痛みは、消費を0.02%犠牲にすることの痛みを比例的に伸ばして考えていいのか、という疑問がある。上述した数式でテーラー展開した(線形近似した)というのは、比例的に伸ばす、という意味になる。しかし、効用関数が非線形であれば、消費の減少が大きくなるほど、線形近似することの誤差が大きくなる。経済学では、消費が減少する痛みは比例関係以上に大きくなると考える。したがって、平均余命の10万分の1年程度の伸びについて蓄積されてきた研究の知見を、それよりもはるかに大きな平均余命の伸びに対して、比例関係を仮定して適用することは適当でない。
 そのため、大きなリスクに対する推計値を新たに設定することが必要になってくる。Hall, Jones and Klenow (2020)は1年間の消費の37%とする試算したが、その根拠はさほど強くない。なお、この試算では、1年間の平均余命の延長は、3.15年分の消費の価値がある。

 最適な都市封鎖(ロックダウン)の時期と規模を研究したAlvarez, Argente and Lippi (2020)では、Hall, Jones and Klenow (2020)の試算値に沿って、1年の平均余命の伸びが3年間の消費に相当すると設定した。死亡者の平均余命は10年としているため、死亡者の統計的生命価値はHall, Jones and Klenow (2020)の約3分の2になる。また、GDP比で表される経済活動の損失と比較できるように、消費のGDP比を3分の2として、GDP比に換算している。このため、死亡者の統計的生命価値は1人当たりGDPの20年分に相当すると設定された。また、統計的生命価値を1人当たりGDPの10年分、30年分、80年分、140年分に変えた感度分析も行っている。最後のGDPの140年分は、上述したEPAの設定値である消費の200年分にほぼ相当する。以下の表は、EPAの設定値、Hall, Jones and Klenow (2020)の試算値、Alvarez, Argente and Lippi (2020)の基準ケースの設定、をまとめたものである。

 

1年間の余命の価値

死亡者の平均余命

統計的生命価値

EPA

消費の5年分

40

消費の200年分

Hall, Jones and Klenow (2020)

消費の3.15年分

14.5

消費の45.7年分

Alvarez, Argente and Lippi (2020)

消費の3年分

10

消費の30年分

GDP20年分

(消費、GDPは1人当たり)

 Alvarez, Argente and Lippi (2020)のシミュレーションは、Ferguson et al. (2020)の問題設定に沿い、医療資源の制約を超えることによって生じる死亡者を減らすために、都市封鎖によって感染速度を遅らせ、ピークの感染者数を抑えようとする被害緩和(mitigation)政策を考えている。人的被害と経済的被害を最小にする都市封鎖のもとでの経済的被害の対GDP比を、統計的生命価値の5つのシナリオについて示したものが、以下の表である。それぞれの行を、左側の統計的生命価値を設定すると、最適な都市封鎖による経済的損失が右側の数字になる、と読めばよい。


統計的生命価値

(年間1人当たりGDP比)

都市封鎖による経済的損失

(年間GDP比)

10

4%

20

8%

30

12%

80

32%

140

20%(?)


 より人命を尊重すれば、感染を抑えようと都市封鎖が強くなると予想されるので、最後の140年のケースで、望ましい都市封鎖が弱まっているのは、奇妙である。もしかしたら誤植かもしれないので、いまの議論では140年のケースは除外しておく。上の議論からほぼあり得ない設定と烙印を押されているので、これを無視しても差し支えはなさそうだ。SIRモデルの非線形微分方程式を含む体系での動学最適化を行った結果から得られた数値であるものの、統計的生命価値の設定と都市封鎖による経済的損失にはほぼ比例関係があることがわかる。なお、都市封鎖による人的被害の軽減額は、経済的損失のほぼ倍と推計されている。具体的な数値自体は、様々なパラメーターの不確かさに影響されるので、そのまま真に受けるのではなく、注意して解釈しなければいけない。統計的生命価値の値が不確かであれば、感染症対策で許容される経済的損失もそれに比例して不確かになる。

 統計的生命価値の利用には批判や抵抗もあるので、あらためて統計的生命価値は感染症対策の評価にどのように活かされるのかを整理しよう。
 経済活動の制限緩和が感染の拡大にもなるなら、生命と経済を天秤にかけることになり、生命重視側からも経済重視側からも責められる、重たい選択である。しかし、政治家が決断して選ばなければいけない。専門家が政治家に代わって選択するわけではなく、専門家の役割は情報を提供することであり、その土台となる作業は2つある。1つは、「天秤にかける」という行為を理論的に位置づけることである。これは、Shelling (1965)により示された、社会にとっての生命と経済の選択を、個人にとってのリスクと経済の選択に置き換えることであり、ここから「統計的」を冠した統計的生命価値の概念が導かれる。もう1つは、人々が日常生活で(無意識であっても)リスクと経済を天秤にかけている意思決定を観察して、妥当と思われる統計的生命価値を計測することである。この2つの作業を通して、政策の意思決定を個人の意識から乖離しないようにするのである。
 しかし、新型コロナウイルス感染症によるリスクの大きさは、これまでの統計的生命価値の推計が対象としていたリスクよりも桁違いに大きく、既存の設定値が過大となることは理論的にわかるものの、人々の実際の選択から妥当な推計値を得ることは難しいし、研究の蓄積も少ない。したがって、感染症対策に使用する統計的生命価値の設定は、従来活用されてきた分野にはない困難を抱えている。特定の値にしぼって、望ましい政策を示すのではなく、統計的生命価値に幅をもたせた推計をした情報を提供する方が望ましいかもしれない。社会の選択を政治家と専門家の価値観によってではなく、個人の意識に沿った形で行おうとする努力も、最後には政治家の判断によらざるを得ない。Acemoglu et al. (2020)は、Alvarez, Argente and Lippi (2020)と類似の問題設定でシミュレーションを行っているが、人的被害と経済的被害を別次元の尺度として、そのトレードオフを示す形で、結果を提示している。これも、1つの方法である。

 なお、被害緩和のシミュレーションは、感染する人がすべて感染して収束する状態まで進んでいる。日本でこのまま早期に収束した場合、そこまでの対策を考えると、大半の人は感染しておらず、第二波以降に感染を遅らせたに過ぎないため、被害緩和とはまったく違う形で評価を行う必要がある。

(参考文献)
Acemoglu, Daron, Victor Chernozhukov, Ivan Werning, Michael D. Whinston (2020), “A Multi-Risk SIR Model with Optimally Targeted Lockdown”, NBER Working Paper No. 27102, May.

Alvarez, Fernando E., David Argente, Francesco Lippi (2020). "A Simple Planning Problem for COVID-19 Lockdown." NBER Working Paper Series No. 26981, April.

Ferguson, Neil M. (2020), “Impact of non-pharmaceutical interventions (NPIs) to reduce COVID-19 mortality and healthcare demand.”

Fernandez-Villaverde, Jesus and Charles I. Jones (2020), “Estimating and Simulating a SIRD Model of COVID-19 for Many Countries, States, and Cities.”
https://web.stanford.edu/~chadj/sird-paper.pdf

Glover, Andrew, Jonathan Heathcote, Dirk Krueger and Jose-Victor Rios-Rull (2020), “Health versus Wealth: On the Distributional Effects of Controlling a Pandemic,” NBER Working Paper No. 27046.

Gollier, Christian and Stephane Straub (2020), “Some Micro/macro Insights on the Economics of Coronavirus. Part 2: Health Policy,” VoxEU, 03 April.

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スペイン風邪での感染症対策の経済的影響のエビデンス

 感染症対策には、感染症の拡大を抑える効果と、その期間中の経済活動を抑制する費用のトレードオフがある、と通常は考えられている。ところが、3月26日に発表された論文(Correia, Luck and Verner 2020)では、スペイン風邪に対して早期に積極的な対策をとった都市ほど経済成長率が高かった、という結果を示した。感染症対策は経済にもプラスだ、というエビデンスは注目を集めて、様々なメディアで紹介された。日本でも、小黒一正教授、渡辺安虎教授等が紹介している。
 ところが、5月2日に、この論文にある経済への効果は実ははっきりしないという論文(Lilley, Lilley and Rinaldi 2020)が現れた。何が起こったのか、簡単にまとめてみよう。

 まず、Correia, Luck and Verner (2020)で確認されたのは、米国の43都市のデータにおいて、1918年の感染症対策(学校休校、集会の禁止、隔離、検疫等)の積極性(早期または長期間の採用)と1914年から1919年にかけての経済成長(製造業の生産または雇用の成長)に正の相関関係があることである。経済成長のデータはスペイン風邪流行前の期間の方を長く含むのだが、100年前の都市別データなので、ちょうど都合のよい期間のデータが見つからず、1914年と1919年の5年間隔のデータしかとれなかった。
 相関関係は因果関係を直ちには意味しない。因果関係を検証する手法のなかで、最良とされているのはランダム化比較試験(RCT)である。感染症対策でRCTを実施するならば、都市ごとにくじを引いて対策を実施するかどうかをランダムに決めることになるが、被験者の協力は得られそうになく、現実には不可能である。そのため、データが示す相関関係が因果関係を示さない可能性が出てくる。
 相関関係が因果関係ではない可能性の1つが、別の要因が両方(この場合、感染症対策と経済成長)に関係があるため、相関関係が表れた、という可能性である。経済成長を被説明変数とし、感染症対策とその他の変数を説明変数とする回帰分析では、この別の要因を説明変数に入れておかないと、調べたい因果関係について正しくない結果が出てしまう。これを「除外変数バイアス」(omitted variable bias)と呼ぶ。社会現象では、この別の要因を完全に網羅することは困難である。そのため、「何か重要な変数が抜けてないだろうか」というのは、雑誌の査読や学会の討論での定番のコメントである。
 いまの場合、除外されると心配になる変数は、スペイン風邪流行前の経済成長である。流行期をまたいで都市の成長トレンドがあれば、流行後の経済成長の違いは流行前の経済成長によって説明されてしまうかもしれない。この定番コメントに事前に備えておくのも論文執筆のほぼ定番であり、Correia, Luck and Verner (2020)では、(やはり5年間隔のデータから得られる)1909年から1914年までの経済成長を説明変数に加えて、感染症対策についての結果には影響しないとしている。
 これに対して、Lilley, Lilley and Rinaldi (2020)は、別の資料から1910年から1917年の人口成長のデータを得て、これを考慮すべき別の要因と考えた。経済成長そのものを示す変数ではないのだが、スペイン風邪流行前の期間としては、ぴったりだ。そして、流行前の人口成長は被説明変数の経済成長と相関がかなり高いと予想され、実際にデータでの相関は高かった。とくに、感染症対策に積極的な都市のなかで被説明変数となる経済成長が高かった都市のほとんどが、流行前の人口成長が高かった。流行前の期間を長く含む被説明変数には、流行前の期間の経済成長がかなり影響していることが疑われる。そして、なぜだかわからないが、流行前の人口成長は感染症対策の積極性とも相関があった。こうして、都市間の成長トレンドの差が感染症対策と経済成長の相関を作り出している可能性が見つかった。そこで、トレンド項を説明変数に加えると(これはこの種の実証分析では広く使われる手法である)、回帰分析での感染症対策の影響は統計的に有意ではなくなった(経済成長に正の影響があるとも、負の影響があるとも言えなくなった)。

 色々な研究者が色々な角度から調べて重要な変数を調べつくしたと思って、定説となっていても、後から重要な変数が見つかる可能性は常にある。まだ査読前の2本の論文で検討されただけなので、これで結果が確定したわけではないが、当初はかなり注目されたエビデンスは、現状では、弱いエビデンスと言わざるを得ない。これも研究の進歩である。私の個人的な判断では、新たな材料が出ないと、Correia, Luck and Verner (2020)での経済的影響に関わる結果はエビデンスとして採用できない(注)。

(注)また、注意すべき点として、強い措置である都市封鎖(ロックダウン)これらの研究には含まれていないので、ここでの知見が現在の欧米諸国でとられている都市封鎖にそのまま当てはまるわけではない。

(参考文献)
Sergio Correia, Stephan Luck and Emil Verner (2020), “Pandemics Depress the Economy, Public Health Interventions Do Not: Evidence from the 1918 Flu.” 

Lilley, Andrew, Matthew Lilley and Gianluca Rinaldi (2020), “Public Health Interventions and Economic Growth: Revisiting the Spanish Flu Evidence.”

(参考)
小黒一正「今回はスペイン風邪型危機:経済制約と一律給付が正解」『週刊ダイヤモンド』第108巻17号、2020年4月25日

「感染防止と経済対策は両立する 渡辺安虎氏」『日本経済新聞』2020年5月1日

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