岩本康志のブログ

経済,財政の話題を折に触れて取り上げます。

COVID-19

Yahoo! ブログから引っ越しました。

不適切な営業自粛要請の代償

 多くの政策と同様に、新型コロナウイルス感染症対策についても、政府は自分のとった政策を肯定的に評価する傾向にある。しかし、未知の感染症への対応であったが故に、情報不足による判断ミス、事前準備の不足のための不本意な対応などがあっても当然である。後から振り返れば誤りであったとしても、その時点では最善の努力をしていれば責められるべきではなく、つぎの危機に備えての改善を考えるべきである。そうした反省をせずに、過去の行動を正当化してしまうことは、判断や行動のミス以上に罪が重い。
 とくに事業者への営業自粛の要請については、きわめて問題がある対応であったにもかかわらず、問題を見据えずに、問題がある対応を固定化しようとしている。

 新型インフルエンザ等対策特別措置法の一部を改正する法律案に対する附帯決議に基づき、政府が作成した「新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言の実施状況に関する報告」によれば、施設の使用制限は以下のように実施されたとされている。

24条第9

施設の使用制限等の協力要請

45都道府県

45条第2項・第4

施設の使用制限等の要請及び公表

21都道府県

45条第3項・第4

施設の使用制限等の指示及び公表

5

 関係する条文は以下の通りである。
第24条(都道府県対策本部長の権限)
9 都道府県対策本部長は、当該都道府県の区域に係る新型インフルエンザ等対策を的確かつ迅速に実施するため必要があると認めるときは、公私の団体又は個人に対し、その区域に係る新型インフルエンザ等対策の実施に関し必要な協力の要請をすることができる。
第45条(感染を防止するための協力要請等)
2 特定都道府県知事は、新型インフルエンザ等緊急事態において、新型インフルエンザ等のまん延を防止し、国民の生命及び健康を保護し、並びに国民生活及び国民経済の混乱を回避するため必要があると認めるときは、新型インフルエンザ等の潜伏期間及び治癒までの期間を考慮して当該特定都道府県知事が定める期間において、学校、社会福祉施設(通所又は短期間の入所により利用されるものに限る。)、興行場(興行場法(昭和二十三年法律第百三十七号)第一条第一項に規定する興行場をいう。)その他の政令で定める多数の者が利用する施設を管理する者又は当該施設を使用して催物を開催する者(次項において「施設管理者等」という。)に対し、当該施設の使用の制限若しくは停止又は催物の開催の制限若しくは停止その他政令で定める措置を講ずるよう要請することができる。
3 施設管理者等が正当な理由がないのに前項の規定による要請に応じないときは、特定都道府県知事は、新型インフルエンザ等のまん延を防止し、国民の生命及び健康を保護し、並びに国民生活及び国民経済の混乱を回避するため特に必要があると認めるときに限り、当該施設管理者等に対し、当該要請に係る措置を講ずべきことを指示することができる。
4 特定都道府県知事は、第二項の規定による要請又は前項の規定による指示をしたときは、遅滞なく、その旨を公表しなければならない。
 条文の趣旨を、『逐条解説 新型インフルエンザ等感染症対策特別措置法』(新型インフルエンザ等対策研究会編集、中央法規、2013年、以下『逐条解説』)によって見ていこう。『逐条解説』は、
第1編 新型インフルエンザ等特別措置法の制定とその背景
第2編 逐条解説
第3編 法令
第4編 参考資料
から4編構成になっている。第24条の適用については、本編である第2編と参考資料である第4編で、違ったことが書かれている。
 まず、本編である第2編の内容は以下の通りである。何が問題かがかわるように、第45条第4項の「公表」から考えていきたい。この「公表」という措置は、第24条による協力要請に応じない業者名を発表する、という懲罰的な措置として用いられた。しかし、『逐条解説』では、第4項の趣旨は、「利用者のため、事前に広く周知を行うことが重要であることから、公表することとしたものである」と説明されている。つまり、お店や建物が閉まっていることを利用者が知らなければ不便である、ということである。では、第24条による協力要請によってお店や建物が閉まっているときは、そのことを利用者が知らなくても不便ではないのだろうか。お店や建物が閉まっていることを利用者が知らないと不便なのは、第24条による協力要請でも第45条による要請でも同じではないだろうか。
 公表が利用者のためだとしたら、なぜ第24条による協力要請では公表を義務づけていないのか。
 それは、『逐条解説』第2編によれば、第24条による協力要請は限定的だからである。第2編では、第24項第9項について、以下のように説明している(85-86頁)。
 第九項において、都道府県対策本部長は公私の団体又は個人に必要な協力要請をすることができる旨の規定を置いている。これは、第七条に基づく都道府県行動計画において、都道府県が実施する措置を規定しているが、これらの措置を的確かつ迅速に実施するよう要請を行う必要があるためである。
 例えば、手洗い、うがいなど感染対策の広報活動において、ボランティア団体への協力を要請すること、コールセンターにおけるボランティアの活用(医学生等)や、新型インフルエンザ等緊急事態宣言前においても、学校、社会福祉施設等での文化祭等のイベントを延期することや施設の使用を極力制限することなど、感染対策を実施すること等の協力を要請することを想定している。
 なお、「公私の団体又は個人」とは、おおよそすべての団体又は個人を指す。公私の団体とは、法人格の有無を問わないものであり、「私の団体」は例えばボランティア団体、集会を行う任意団体などがある。
 第45条第2項による要請は、事業者の経済活動を制限する重い措置であり、『逐条解説』には詳細な記述がある(157-169頁)。それらは、第24条第9項の解説には現れない。第24条第9項で、第45条第2項と同様の措置がとれるのなら、第24条第9項の解説で詳しく説明しておかなければならない。
 以上のことから、第2編によれば、第24条第9項には営業自粛の協力要請は含まれないことがわかる。

 ところが、2012年4月27日に成立した特措法が2013年4月に施行される前にまとめられた「新型インフルエンザ等対策有識者会議中間とりまとめ」(2013年2月7日)が『逐条解説』第4編に収録されており、ここでは違ったことが書かれている。
「中間とりまとめ」では、第45条による要請・指示の対象となる施設を、
(区分1)これまでの研究により感染リスクが高い施設等(学校、保育所等)
(区分2)社会生活を維持する上で必要な施設
(区分3)それ以外の施設
と分類した。区分2に例示されているのは、食料品店、公共交通機関であり、第45条の対象外とするのが適当であるとされている。区分3については、「最初から特措法第45条の要請を行うのではなく、まず特措法第24条第9項の一般的な要請を行った上で、対応することが考えられる」(498頁)としている。そして、第45条による要請の適用は、第24条による協力要請に応じずに、公衆衛生上の問題が生じると判断される施設に限定されている。以下が、その説明箇所である(500頁)。
 区分3の施設(興行場等)については、第1段階として、特措法第24条第9項による協力の要請を、施設のカテゴリーごとにすべての規模を対象に(A県B地区の映画館等)行う。要請の具体的内容としては、以下が想定される。
・ 入場制限、消毒薬の設置、咳エチケット等の徹底
・ 場合によっては施設の一時的休業(強調引用者)
※ 要請に応じていただけない場合、特措法第45条の要請・公表を行うことがあるということを併せて周知する。
 第2段階として、第24条第9項による協力に応じていただけず、公衆衛生上の問題が生じていると判断された施設(1000㎡超の施設)に対してのみ限定的に特措法第45条による要請を個別に行う(A県B地区のα映画館、β百貨店)。
 なお、対象外となる1000㎡以下の施設については、特措法第24条第9項による任意の協力要請により対応し、特に必要がある場合には、規模に関係なく特措法第45条の対象とする。
この考え方は、政府の行動計画にも取り入れられた。以下は、政府の行動計画での説明である。
・都道府県は、特措法第24条第9項に基づき、学校、保育所等以外の施設について、職場も含め感染対策の徹底の要請を行う。特措法第24条第9項の要請に応じず、公衆衛生上の問題が生じていると判断された施設(特措法施行令第11条に定める施設に限る。)に対し、特措法第45条第2項に基づき、施設の使用制限又は基本的な感染対策の徹底の要請を行う。特措法第45条第2項の要請に応じず、新型インフルエンザ等のまん延を防止し、国民の生命・健康の保護、国民生活・国民経済の混乱を回避するため特に必要があると認めるときに限り、特措法第45条第3項に基づき、指示を行う。
 都道府県は、特措法第45条に基づき、要請・指示を行った際には、その施設名を公表する。
 ここでは、第45条による要請は、第24条による協力要請(例えば消毒薬の設置)に応じなかった事業者に限定されていて、第2編の趣旨より制限されている。また、第45条による公表は、第24条による要請に応じなかった場合の罰則の意味合いをもつように変わっている。

 以上が事前に計画されていたことである。しかし、第45条による要請を『逐条解説』第2編よりも限定したことが、裏目に出る。現実には、第24条による協力要請にきちんと応じる事業者にも休業要請したいのに、「中間とりまとめ」に沿った、政府の行動計画(それに沿って作成された地方の行動計画)がその道をふさいでいるのである。そこで利用したのが、上に引用した「中間とりまとめ」で、第24条による協力要請の具体的内容として「場合によっては施設の一時的休業」が書かれていることである。これが、日本全国に適用された。
 行動計画を逸脱しなければ動けなくなった以上、逸脱することは仕方がない。問題は、どこをどう逸脱するかだ。選択肢には、根幹を死守し枝葉を犠牲にするか、枝葉を死守し根幹を犠牲にするか、があった。現実は、後者を選んだ。
 もともとは、特措法での緊急事態措置による私権の制限は大きな問題をはらむものであり、第5条では「国民の自由と権利が尊重されるべきことに鑑み、新型インフルエンザ等対策を実施する場合において、国民の自由と権利に制限が加えられるときであっても、その制限は当該新型インフルエンザ等対策を実施するため必要最小限のものでなければならない。」と定められている。当然、休業要請も抑制的に運用することが求められる。法律の構造では、根幹とは私権の制限を最小限にするということ、枝葉とは行動計画を遵守すること、である。
 根幹を死守するには、第24条ではなく第49条による要請を出すべきだった。「中間とりまとめ」を捨てて第2編の趣旨に沿い、休業要請は第45条による要請に限定されていると解釈するのだ。しかし、法律条文では第24条と第45条の具体的内容の区別はつきにくい。そして、「中間とりまとめ」に、第24条で休業要請が出せる文章があった。こうして、蟻の一穴から堤防が崩壊した。
 4月には緊急事態宣言後に第24条による協力要請が出されたが、法律上は第24条による措置は緊急事態下に限定されない。今回の政府の報告を是とするなら、緊急事態宣言を出さなくても、事業者の死活問題になる休業要請を出すことができる。特措法制定時に懸念されていた私権の制限の余地が、いつの間にか大幅に拡大されてしまった。
 第5条の背景にあるのは、財産権の保護は高度な経済を営むために欠かすことのできないものであるという認識である。発展途上国が経済発展するためにまず整えるべきことは、財産権を確立して、経済活動を安定的に営めるようにすることである。ところが、感染症への恐怖だろうか、私権を制限する対策を安直に求める意見を散見する。しかし、たやすく休業要請がされる社会では高度な経済は営めない。言い換えれば、感染症を抑止するために安直に私権の制限を求める代償は、先進国をやめることである。
 財産権の保護は先進国にとって空気のようなものであって、普段はそのありがたさに気づきにくい。それが、休業要請の運用の危険性に鈍感な理由だろう。しかし、空気がなくなれば大問題である。

[2020年9月1日追記:24条を29条としていた数か所の誤記を修正しました。]

(参考)
新型インフルエンザ等対策研究会編集『逐条解説 新型インフルエンザ等感染症対策特別措置法』(中央法規、2013年)
新型インフルエンザ等対策政府行動計画」(2013年6月7日、2017年9月17日変更)
新型インフルエンザ等対策ガイドライン」(2013年6月26日、2018年6月21日一部改定)」

(関係する過去記事)
『自粛要請に関連する補償のあり方』

「感染症拡大モデルにおける行動制限政策と検査隔離政策の比較」へのコメント

 新型インフルエンザ等対策有識者会議の基本的対処方針等諮問委員会と新型コロナウイルス感染症対策分科会の委員である小林慶一郎氏が、奴田原健悟教授との共同論文「感染症拡大モデルにおける行動制限政策と検査隔離政策の比較」を20日、発表している。要旨には「検査隔離は検査強度を最大にして1年間継続することが望ましい」とあり、小林氏がかねての主張している検査強化を根拠づけるかのように見える。しかし、私が一読した感想では、この論文からこのような結論を導くことはできないと思う。

1.政策の選択について
 論文の核心部分は、以下の2つの政策の比較である。

(A)「検査をせず、接触8割削減を360日おこなう」政策では、GDPの損失が20.69%、死者数が0.2829%。
(B)「全員に毎日検査をおこない、接触5割削減を90日おこなう」政策では、GDPの損失が7.25%、死者数が0.2777%。

 政策のシミュレーションでは、(A)を比較の基準となる政策として、これよりも死者数を上回らない範囲で、GDPの損失が小さくなる政策を探している。接触一律削減だけでなく、検査を併用することで、死者数も経済損失も小さくなる政策の組み合わせがいくつも見つかることを示している。このこと自体は、多くの先行研究で見出されてきたこととも符合する。そして、検査回数は「全員に毎日」が最大限という条件のもとで、最大限の検査をおこなう政策が最もGDPの損失が小さくなった。
 毎日検査の具体的イメージは、朝に検査して、夕方には結果がわかり、陽性者は隔離されて感染が減る、というものだろうか。「陽性=他人に感染させる可能性あり」とモデル化されているので、他人に感染させる機会があるのは、前日に検査を受けた後(結果は陰性)から今日の検査結果(陽性)を知らされるまでの期間になる。
 ただし、政策を選択するという観点から見ると、そもそも(A)が実行に値しない下策であれば、(B)はそれよりはましな下策に過ぎず、やはり実行に値しない、という可能性が否定できていない。(A)は、接触8割削減の自粛を1年間続けて、多大の経済損失を甘受するというものであるが、現実にはどの国でも採用しようとしない政策が正当化できるか、という問題は論文では棚上げしている。したがって、この分析は、(B)を選択すべき、という根拠にはならない。

2.検査費用について
 シミュレーションが実際の政策の選択に役立つには、検査費用が合理的に見積もられている必要がある。論文の基本ケースでは、国民が毎日1回検査を受ける費用がGDPの10%である、と仮定している。新型コロナウイルス感染症の影響を受けない2019年の名目GDPが554兆円であり、1億2,600万人(年央人口)が年間365回検査を受けるとすると、1回あたり費用は約1,200円である。現在のPCR検査費用を安く見積もっても、その10分の1以下の費用である(例えば、保険適用の費用は検査機関による検査で19,500円)。規模の経済が働き費用が下がることを想定し、検体をまとめて検査する「グループ検査」方式を採用するにしても、この費用の設定は低いのではないだろうか。
 論文では、この3倍の費用の場合の政策シミュレーションもおこなっていて、こちらはもう少し現実味を帯びた設定である。その結果(論文・表3)は、興味深いものとなっている。検査上限を1日当たり1、0.25、0.1回としたシミュレーションをしているのだが、いずれのケースも検査上限よりも低い検査水準が望ましいという結果になっている。つまり、「検査費用が現実の水準のように高いと、検査をいくらでも増やすことは得策とならない」という結果が得られている。これは政策立案にも示唆深い知見ではないだろうか。
 なお、ある上限制約で内点解が求められても、上限を上げると別の内点解が求められていることから、検査水準とGDP損失が単調な関係になっていないことが窺われる。どのような関係にあるのかの考察はされていないが、検査と経済の関係を理解する上でも重要な課題なので、何等かの考察が望まれる。

3.その他
 その他に、分析の改善を期待したい点に、以下のようなものがある。
 論文では、検査結果が100%正しい、と仮定している。しかし、偽陰性が(よく言われる)70%であれば、検査しても30%は隔離し損ねる。したがって、感染抑止効果は過大評価されていると考えられる。この修正は比較的容易と思われる。
 シミュレーションでは、何も対策を講じなければ総人口の2%以上の死亡者が出るとされている(論文・図2)が、1憶2,600万人の2%だと252万人であり、論文執筆時点の世界全体の死亡者の3倍を上回る。これは過大推計ではないだろうか。このことは、死亡者数を抑制する政策の価値も過大推計することにつながる。
 最適解の探索では、接触機会の削減率は実施期間中一定であると仮定されているが、実際には期間中に変化させることが可能であり、必要以上に厳しい制約を課している。先行研究の主流は、行動制限の水準を時間によって変化させる政策の分析であるので、この仮定は緩めた方が望ましいのではないか。
 無検査感染者の動学を示す(17)、(19)式は正しいのだろうか。無検査感染者は、回復、入院、検査の3つの経路で減少するが、検査を受ける者は同時に回復、入院することもあるので、流出数が二重計算になってはいないだろうか。

4.論文から何が言えるか
 まとめると、この論文からは、国民全員を毎日検査して陽性者の隔離する政策が望ましいとは言えない。検査費用が高額であることを考慮すると、注意深く、費用に見合う効果をあげる形で検査能力を拡大していくことが重要であろう。

(参考文献)
小林慶一郎・奴田原健悟(2020)「感染症拡大モデルにおける行動制限政策と検査隔離政策の比較」CIGS Working Paper Series No. 20-005J

どの産業から再開するか

 新型コロナウイルス感染症対策として実施された経済活動の制限をどのように緩和していくのか、という経済再開(reopen)が、直近の重要な政策課題である。経済活動が活発になれば、感染機会が拡大する。この健康と経済のトレードオフのもとで、経済活動の制限が必要となるならば、一律に制限するよりも、対象を選別して制限する対策をとることで、効率性を高めることができる可能性がある。実効再生産数を下げる手段を別に講じながら、すべての産業を一律に制限するのではなく、一部の産業を制限するとすれば、どの産業を対象とすべきか。この問題について、ハーバード大学の経済学者と公衆衛生学者がチームを組んだ研究の概略を紹介したい(Baqaee et al. 2020)。
 この研究では、人口を5つの年齢階層(0-19、20-44、45-64、65-74、75-)に区分する多次元SIRモデルが用いられている(正確には、潜伏期間、隔離、死亡の状態も加えられたモデルになっている)。POLYMODのデータに基づいて接触回数が設定され、接触場所が家庭、職場、その他の3つに区別される。年齢階層iと年齢階層jの接触回数は、3つの場所の接触回数の合計として、
\[C_{ij}=C_{ij}^{home}+ \sum_k C_{ij,k}^{work} + C_{ij}^{others}\]となる。ここで、職場での接触は66産業(kの添え字で表す)に区別されていて、ある年齢階層の職場での接触は、その年齢階層の産業別の就業者数に比例すると想定する。年齢階層別・産業別の就業者数のデータは、アメリカ地域社会調査(American Community Survey)を使用している。また、各産業の生産は、その産業の就業者の増加関数で表される。このようにして、感染機会と経済活動の関係を産業別に定量化する。
 ある産業の就業者を政策的に抑制すると、接触回数が減少して、感染の拡大が抑制されるが、産業の生産も抑制される。SIRモデルと生産関数をモデルに組み込むことで、このトレードオフが考慮される。じつは、このモデルを使ってどの産業から再開していくかという問題設定をすると、産業の数とタイミングが政策変数となり、政策変数の数が多すぎて、厳密には解けなくなる。そこで、厳密には解ではないものの、就業者の抑制を緩和したときのGDPの増加と基本再生産数の増加の比を考え、比の大きい産業から制限を緩和することが考えられる(多次元SIRモデルでの基本再生産数は、「基本再生産数とターンパイク」を参照)。
 そこでこの研究では、この比(θとする。分子はGDPの対数の変化、分母は基本再生産数の変化をとる)を北米産業分類(NAICS)による産業別に求めている。以下は、その結果の抜粋である(原論文の付表1)。θは中央値をゼロ、75%点と25%点の差が1となるように変換してある(変換前のθは、25%点0.36、50%点0.92、75%点1.50であった)。NAICSの産業名の定訳がないため、原語のまま表記した。
 表1は、感染リスク当たり経済価値が高い、上位10産業を示した。ここには、金融、法律サービス、企業経営・管理、ソフトウェア開発、出版等が入っている。専門技術サービスで付加価値が高いことや、リモートワークが可能なことが、こうした産業が上位に並ぶ理由の一つと考えられる。おおむね米国が強い業種であるが日本では弱い業種なので、この結果はそのまま日本でも当てはまるかどうかはわからない。

表1 感染リスク当たりの経済価値が高い産業

NAICS

産業

θ

55

Mgmt of companies and enterprises

38.636

523

Securities, commodity contracts, and investments

22.516

5411

Legal svcs

22.350

211

Oil and gas extraction

9.175

5415

Computer systems design and related svcs

6.662

524

Insurance carriers and related atvs

4.411

511

Publishing inds, exc internet (includes software)

2.221

541OP

Misc professional, scientific, and technical svcs

1.707

334

Computer and electronic products

1.515

42

Wholesale trade

1.295

(出典)Baqaee et al. (2020)、Appendix Table 1。

 表2は、感染リスク当たり経済価値が低い産業を示したものである。θの値が接近しているので、表1よりも多くの産業を示している。ここには、接触が必要な業態が並んでいるが、なかには医療、福祉、運輸という、止めることができない産業があるのが悩ましい。教育もここに入っていて、止めることの費用が大きい産業だ(実際は大学以外は長期休校にしてしまったが)。他の産業としては、飲食、宿泊、娯楽が入っていて、これらは現に最も制限が課された産業になっている。

表2 感染リスク当たりの経済価値が低い産業

NAICS

産業

θ

721

Accommodation

-0.493

621

Ambulatory health care svcs

-0.524

441

Motor vehicle and parts dealers

-0.541

711AS

Performing arts, sports, museums, and related atvs

-0.560

622

Hospitals

-0.566

23

Construction

-0.583

623

Nursing and residential care facilities

-0.636

713

Amusements, gambling, and recreation inds

-0.672

4A0

Other retail

-0.675

452

General merchandise stores

-0.681

624

Social assistance

-0.683

525

Funds, trusts, and other financial vehicles

-0.686

722

Food svcs and drinking places

-0.697

HS

Housing

-0.706

445

Food and beverage stores

-0.718

485

Transit and ground passenger transportation

-0.735

61

Educational svcs

-0.736

(出典)Baqaee et al. (2020)、Appendix Table 1。

 感染機会と生産活動の関係づけは、今後の研究で改良の余地があるかもしれない。比のごくわずかの差は、推計誤差によるものかもしれず、細かな順位にこだわらず、大きな傾向を見るべきであろう。こうした分析が制限の根拠となった場合には、該当する産業にとっては死活問題になるだけに、分析の精度を高めることは非常に重要である。
 現実の経済活動の制限は、このような研究がないうちに、直観的な推測で実施されていたと思われるが、この推定結果に大きく反するものではなく、大勢としては妥当なものだったと思われる。ただし、産業を選択して制限をおこなうことは一部の産業が大きな負担を負うことになるので、負担を負った産業をどう支援するかが重要な課題である。

(付記)
Baqaee論文の共著者であるファーリ氏は7月23日に41歳の若さで急逝した。目覚ましい活躍を遂げていたスターを失ったことは、学界にとっては痛恨事であった。哀悼の意を表します。

(参考文献)
Baqaee, David, Emmanuel Farhi, Michael J. Mina and James H. Stock (2020), “Policies for a Second Wave,” forthcoming in Brookings Papers on Economic Activities. 

基本再生産数とターンパイク

 産業別に経済活動を再開する戦略を研究した、ハーバード大学の経済学部と公衆衛生大学院の研究者によるBaqaee et al. (2020)を紹介したいが、その前にこのような共同研究が自然に成立する事情について、(少し数学的な記述になるが)解説しておきたい。

 すべての個人が同質的であると仮定したSIRモデルでは、新型コロナウイルス感染症の罹患率、致死率が年齢によって大きく違う現象を記述できない。こうした本質的に重要な現象を記述するには、個人を年齢階層に分類した多次元SIRモデルが使われる。
 モデルの個人をn個の年齢階層に分類して、年齢階層を添え字iをつけて表そう。ある年齢階層の個人は、各年齢階層の個人と接触することによって感染する。感染者の年齢階層の動学は、
\[\dot{I}_i(t)=\beta_{i1}S_i(t)\frac{I_1(t)}{N_1(t)} + \ldots + \beta_{in}S_i(t)\frac{I_n(t)}{N_n(t)} - \gamma I_i(t) \hspace{1em} (1)\]
と表される。βは感染率を表し、各年齢階層の間での感染のある接触によって感染が決まる。
 感染症のモデルでは、離散時間モデルにして、各期間で感染が一斉に起きて、期間ごとに感染者がすべて入れ替わるという仮定のもとで「次世代行列」を定式化して、基本再生産数を定義する(Diekmann, Heesterbeek and Metz 1990、van den Driessche and Watmough  2002)。この記事では経済学と関係づけるために、次世代行列を用いず、SIRモデルの構造のままで議論を進める。
 感染前の状態(感染者がおらず、全人口が未感染者)で線形近似すると、(1)式右辺のSが感染の無い状態での未感染者(つまり人口)で固定され、ベクトルと行列を使って表すと、
\[\left[\begin{array}{c} \dot{I}_1(t) \\ \vdots \\ \dot{I}_n(t) \end{array} \right] = \left[\begin{array}{ccc} \beta_{11} N_{1}(0)/N_{1}(0) & \ldots & \beta_{1n} N_{1}(0)/N_{n}(0) \\ \vdots & \ddots & \vdots \\ \beta_{n1} N_{n}(0)/N_{1}(0) & \ldots & \beta_{nn} N_{n}(0)/N_{n}(0) \end{array} \right] \left[\begin{array}{c} I_1(t) \\ \vdots \\ I_n(t) \end{array} \right] - \gamma \left[\begin{array}{c} I_1(t) \\ \vdots \\ I_n(t) \end{array} \right] \hspace{1em} (2)\]
となる。(2)式のベクトルと行列に記号をつけると、
\[\dot{I}(t) = (B-\gamma I)I(t) \hspace{1em} (3)\]
となる。記号が紛らわしいが、(3)式の右辺の括弧内のIは単位行列である。感染が拡大するかどうかは、行列B-γIの固有値によって決まる。
 Bは個人の接触機会を表すので、ある年齢階層とある年齢階層がまったく(感染につながる)接触をもたないということは考えにくい。そこで、Bのすべての要素は正であると仮定しよう。このとき、ペロン=フロベニウスの定理により、Bの固有値のなかで絶対値が最大のものβ0(ペロン=フロベニウス根)は単独解で、正の実数になる。すると、感染者が(3)式に基づいて推移すると想定すると、まもなく各年齢階層の感染者が同じ率(β0-γ)で成長する状態に近づいていく。β0-γ>0であれば、感染は拡大する。β0/γが多次元SIRモデルでの基本再生産数であり、これが1より大きいとき、感染は拡大する。また、このときの感染者の年齢別分布は、ペロン=フロベニウス根に対応する固有ベクトルになる(詳しくは末尾の数学注で解説する)。

 この議論の背景にある数理は、フォン・ノイマン・モデル(von Neuman 1937)を嚆矢とする経済成長論での議論に共通するところがあって、経済学者にはなじみやすい(経済学にくわしくない読者のために説明しておくと、フォン・ノイマンとは、あのジョン・フォン・ノイマンである)。フォン・ノイマン・モデルでは、n種類の財を投入し、n種類の財を産出する生産活動を考える。利潤率の最大化が図られると、経済の成長率(すべての財の生産が同じ率で成長する)が最大となる経路(フォン・ノイマン経路von Neuman rayと呼ばれる)をたどることを、フォン・ノイマンは示した。その後、フォン・ノイマン・モデルの変種を使うことで、数理マルクス経済学や動学的産業連関分析のような研究分野が発展した。
 動学的産業連関分析では、最適成長経路がフォン・ノイマン経路に近づくことが明らかにされ、ターンパイク定理と呼ばれている。ターンパイクとは高速道路のことである。自動車で目的地まで最短時間で行くには、出発地の近くの高速道路に乗り、目的地の近くで降りるとよいという性質との類推で、フォン・ノイマン経路をターンパイクに見立てたものである。日本の高度成長期には、現在の内閣府経済社会総合研究所の前身である経済企画庁経済研究所でターンパイク理論に基づく最適成長経路の研究がされていたりもした(村上他、1970)。
 このターンパイクを特徴づける議論にはペロン=フロベニウス定理も使われ、上述した多次元SIRモデルでの基本再生産数と共通した数理がある。このため、経済学者にとっては、感染症が基本再生産数で流行する様子は、ターンパイクを突っ走るイメージを思い起こさせる。感染症のモデルと違うところは、経済成長モデルでは経済主体の行動によって、ターンパイクが選ばれていることである。

 感染症のモデルに戻ろう。行列Bを定量化するには、以下のような方法がある。
 感染機会は接触機会に比例すると考え、年齢階層iの1人が年齢階層jと接触する回数をCij、感染のしやすさをpijとすると、Bは、
\[\left[\begin{array}{ccc} C_{11} p_{11} N_{1}(0)/N_{1}(0) & \ldots & C_{1n} p_{1n} N_{1}(0)/N_{n}(0) \\ \vdots & \ddots & \vdots \\ C_{n1} p_{n1} N_{n}(0)/N_{1}(0) & \ldots & C_{nn} p_{nn} N_{n}(0)/N_{n}(0) \end{array} \right]\]
と書くことができる。pijはすべて異なる値をとることができるように定式化したが、実際にデータを扱う際には、パラメータの数を減らす仮定をいれざるを得ない。それらには、
すべて同じ値である、
感染のしやすさは同じだが、感染のさせやすさは年齢階層で異なる(pij=pj)、
感染のさせやすさは同じだが、感染のしやすさは年齢階層で異なる(pij=pi)、
感染のしやすさ、させやすさはそれぞれの年齢階層の違いだけで生じる(pij=pi pj)
のような定式化が考えられる。
 年齢階層iと年齢階層jとの接触は、どちらの階層から見ても同じで、
\[C_{ij} N_{i}(0) = C_{ji} N_{j}(0)\]
が理論的には成立しているはずであるが、おそらく調査データでは満たされてないので、これを満たすような接触回数を推定することになる。これを満たす場合、Bは
\[\left[\begin{array}{ccc} C_{11} p_{11} & \ldots & C_{n1} p_{1n} \\ \vdots & \ddots & \vdots \\ C_{1n} p_{n1} & \ldots & C_{nn} p_{nn} \end{array} \right]\]
となる。
 また、接触回数は接触の場所ごとに分類する。例えば、家庭、学校、職場、その他に分類すると、
\[C_{ij}=C_{ij}^{home}+ C_{ij}^{school} + C_{ij}^{work} + C_{ij}^{others}\]
のようになる。
 欧州で社会階層間の接触回数を調査した研究にPOLYMODがあり、同様の調査が日本でもIbuka et al. (2016)、Munasinghe, Asai and Mishiura (2019)によって行われている。
「外出8割自粛」のような、一律の接触削減は、この行列の要素を一律に低下させようとするものである。しかし、このように集団ごとの詳細なデータがあると、対象をしぼった接触回数の削減の効果を推測することができる。例えば、インフルエンザによる学級閉鎖を児童の年齢階層での接触回数の削減として、実効再生産数への影響を見るようなことができる(注)。

(注)ただし、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)はこの年齢階層には感染しにくい(「小児の新型コロナウイルス感染症の診療に関連した論文」公益社団法人日本小児科学会)ので、インフルエンザと同じように考えることはできない。

 経済学でも同様に、生産技術に影響を与える政策がペロン=フロベニウス根を変化させて経済成長率に影響を与えることを考えることができる。こちらは成長率を小さくするのではなく、大きくすることを考えるが、背景の数理は共有している。こうして、多次元SIRモデルによる分析で、経済学者と疫学者の共同研究が生まれてくるのは自然な流れになる。
 そこで、つぎの記事で、そうした共同研究であるBaqaee et al. (2020)の内容を紹介しよう。

(参考文献)
Baqaee, David, Emmanuel Farhi, Michael J. Mina and James H. Stock (2020), “Policies for a Second Wave,” forthcoming in Brookings Papers on Economic Activities. 

Diekmann, O., J. A. P. Heesterbeek and J. A. J. Metz (1990), “On the Definition and the Computation of the Basic Reproduction Ratio R0 in Models for Infectious Diseases in Heterogeneous Populations,” Journal of Mathematical Biology, Vol. 28, pp. 365–382.

van den Driessche, P., and James Watmough (2002), “Reproduction Numbers and Sub-threshold Endemic Equilibria for Compartmental Models of Disease Transmission,” Mathematical Biosciences, Vol. 180, Issues 1–2, November–December, pp. 29-48.

Ibuka, Yoko, et al. (2016), “Social Contacts, Vaccination Decisions and Influenza in Japan,” 
Journal of Epidemiology & Community Health, Vol. 70, Issue 2, pp.162-167.

Munasinghe, Lankeshwara, Yusuke Asai and Hiroshi Nishiura (2019), “Quantifying Heterogeneous Contact Patterns in Japan: A Social Contact Survey,” Theoretical Biology and Medical Modelling, 16:6.

村上泰亮・時子山和彦・西藤冲・時子山ひろみ・日水俊夫(1970)、「日本経済の最適成長径路-EPAターンパイク・モデルによる分析-」、『経済分析』第30号、7月、1-87頁

von Neumann, John (1937), “Über ein ökonomisches Gleichungssystem und eine Verallgemeinerung des Brouwerschen Fixpunktsatzes,” in K. Menger, ed., Ergebnisse eines Mathematischen Kolloquiums (English translation, “A Model of General Economic Equilibrium,” Review of Economic Studies, 1945, Vol. 13 (1), pp.1-9).

(数学注)
 Bの固有値βは、|B-βI|=0を満たすので、|B-γI-(β-γ)I|=0である。したがって、β-γは、B-γIの固有値である。β0はBの固有値で実数部が最大のものであるから、β0-γはB-γIの固有値の実数部で最大のものであり、これが正のとき、感染前の状態は不安定な均衡なので、感染が拡大する。これは、β0/γ>1となるときである。
 βに対応する固有ベクトルxはBx=βxを満たすベクトルなので、同時に(B-γI)x=(β-γ)xを満たす。

感染流行の第1波を乗り越えることで得たもの(そのZ)

「何もしなかったら死亡したであろうX万人の余命を平均Y年延ばした。その価値は国内総生産(GDP)のZ%である」の「Z」について。
 これは、『感染症対策の評価に用いる統計的生命価値』で解説した統計的生命価値を用いて、延ばした余命を貨幣価値化することになる。これは誰かが天の声で命に値段をつけたわけではなく、われわれが日常生活のなかで、十分に小さいがゼロではないリスクを軽減するためにどれだけの対価を払っているかを計測して、そうした行動と違和感のない政策決定をするために、用いる概念である。
 自動車の安全装備を例にとろう。2019年の日本の交通事故の死者数は、3,215人である。2019年の年央人口は1億2,626.5万人であるので、日本では1年間で交通事故で死亡する確率は平均で10万分の2.5である。われわれの社会は、この交通事故で死ぬ確率をほぼゼロにするために、自動車を使わないようにしようとはしない。自動車を使う便益が大きいので、このリスクを受け入れて、交通安全に気を付けて自動車を運転している。ただし、いくばくかの費用を負担して、いくらかは交通事故による死者を減らしたいと思えば、自動車に安全装備をつける。こうした日常生活での意思決定に近い形で判断を行えば、国民の意識から離れた政策にはならないだろう。これが、統計的生命価値で妥当な推計値を求めようとするときの根底にある考え方である。
 統計的生命価値として日本で広く使われているのは、内閣府が推計した2億2,600万円(2004年度価格)である。この推計は、10万分の6から10万分の3に死亡リスクが低下する安全グッズにいくら支払ってもよいか、を人々に尋ねる仮想評価法(CVM)に基づいている。同年度の1人当たり消費が267.1万円(家計現実消費支出341兆3,567年億円、年央人口1億2,778.7万人)なので、消費の85年分となる。『感染症対策の評価に用いる統計的生命価値』で紹介した、EPAの設定値の43%である。
 対消費比が一定として2018年度の価値に換算しよう。同年度の1人当たり消費は293.7万円であり(2018年度の家計現実消費支出は371兆3,081億円、年央人口は1億2,644.3万人)、2004年度より9.9%増である。1年当たりの価値は、2004年の『簡易生命表』による日本人全体の平均余命41.9歳を用いると593万円、費用便益分析で標準的に用いられている4%の割引率で割り引いた平均余命18.6年を用いると1,333万円になる(2004年の『人口推計』では90歳以上がまとめられているため、2005年の『国勢調査』の年齢別人口の比率で90歳以上の人口を『簡易生命表』の年齢区分に合わせるように補正した)。消費の2.0年分となる(4%で割り引いた場合は4.5年分)。
 その他の推定値としては、例えば大日・菅原(2006)は、延命効果がある新しい治療法に対する支払意思額を尋ねる調査から、1年当たりの価値を635~670万円(2005年度価格)と推計している。
『感染症対策の評価に用いる統計的生命価値』で紹介したように、致死率の高い感染症のような大きなリスクに対しては、非常に小さいリスクについて推計された統計的生命価値が過大評価になっている可能性がある。しかし、まだ評価が定まっているわけではないので、ここでは過大推計の可能性に注意しながら、内閣府推計値を用いる。

 では、「Z」を計算しよう。まず、「X万人の余命を平均Y年延ばした」については、X=42万人、Y=0.5年/人として、21万年分が、確かに得られたものとなる。ワクチンが開発されれば、最大でY=12.2年/人となるが、これは賭けである。上述の統計的生命価値の推計に基づくと、21万年分の延命の価値は日本の消費総額の0.34%となる。GDP比に換算すると0.22%となる(家計現実消費とGDPの両方の計数が得られる2018年度の数値に基づく)。費用便益分析で使われる割引率4%で割り引いた場合には消費の0.76%、GDPの0.51%となる。割り引いた値を用いると、「Z」は0.51%である。
 すべてをまとめると「何もしなかったら死亡したであろう42万人の余命を平均半年延ばした。その価値は国内総生産(GDP)の0.5%である」。これが第1波を乗り越えたことで得たものである(ただし、依拠する前提の数値次第で変わり得る)。ワクチンが開発されれば、得られるものはGDPの4.5%になる。なお、ここで考えている対策とは政府によるものだけではなく、民間が自主的に行う予防・自衛も含まれる。
 GDPの0.5%とは、ずいぶんと小さい、そんなはずはない、と感じただろうか。このことに関連した興味深い研究がある。Hargreaves Heap et al. (2020)[2020年6月20日追記。著者名の誤記を修正]は、新型コロナウイルス感染症の流行最盛期の4月に米英の市民を対象に、仮想評価法で統計的生命価値を推計したところ、通常の推計値の約10倍のものになったと報告している。そして、都市封鎖の経済損失の予測を知らせた上で繰り返し同じ調査をすると、人々の回答は統計的生命価値の推計値を下げる方向に変わった。このことから、命を守ることへの支払意思額は状況に左右されて、感染症流行期に特殊な状態にあることが推測される。生命重視で経済活動を制限する対策が最初は政治的に支持されても、後で生命と経済の比重が変わって、制限緩和の要求が高まることも示唆される。
 そして、意思決定をした選好と十分な情報が与えられての選好が異なる場合、政策評価は後者の選好に基づいて行われる(岩本 2009、Boardman et al. 2018, pp. 137-139)。
 通常期の判断を、別の角度から考えてみよう。『社会保障費用統計』(国立社会保障・人口問題研究所)によれば、2017年度の「保健」への支出は、41兆8,713億円(GDPの7.7%)である。医療がなければ救われない命を、日本の医療は毎年たくさん救っている。われわれは医療にGDPの7.7%をかけて、1億2,600万人の命を預けていると言える。これが通常期の医療へのお金の使われ方である。それと比較して、新型コロナウイルス感染症から救うために(人間一度は死ぬので、他の理由で死ぬために)いくら使おうと思うだろうか。

 ここまで感染症対策の効果を見てきたが、一方で感染症対策で失ったもの(費用)は何だろうか。費用とは、政府が感染症対策と経済対策で計上している経費ではない。定額給付金、雇用調整助成金、持続化給付金等の現金給付は所得再分配であり、感染症と感染症対策で生じた被害を別の場所に移す働きをするものだ。根源の被害を見なければならず、それは、政府による対策だけでなく民間による自主的な予防・自衛も含めての対策による経済活動の収縮分であり、まずGDPの収縮分がある。つぎに、事業継続できなかったことで清算された資産がある。ただし、これらは感染症自体がもたらした被害と一緒に現れるので、その実額は直ちにはわからない。
 感染症対策で得たものは他にもあるだろうか。1つは、有症感染者は有症期間に経済活動に従事できなくなることや生活の質が損なわれる損失があって、これを半年先延ばしにできたことだろう。『感染流行の第1波を乗り越えることで得たもの(そのY)』で触れた通り、損失を半年先送りすることの便益は、損失の約2%である。このため、上で計算した人的被害の推計誤差の範囲に入るくらいのわずかなものになるだろう。
 他に得たものもさほど大きくなく、ワクチンも開発されないならば、GDPの0.5%分の価値を得たとしても、かりにGDPの5%でも失ったとしたらおそらく桁違いの大損害だろう。

(参考文献)
Boardman, Anthony E., David H. Greenberg, Aidan R. Vining and David L. Weimer (2018), Cost-benefit Analysis, 5th ed., Cambridge University Press. 

Hargreaves Heap, Shaun P., Christel Koop, Konstantinos Matakos, Asli Unan and Nina Weber (2020), “Valuating Health vs Wealth: The Effect of Information and How This Matters for COVID-19 Policymaking,” VoxEU, 06 June.

岩本康志(2009)「行動経済学は政策をどう変えるのか」池田新介・市村英彦・伊藤秀史編『現代経済学の潮流2009』,東洋経済新報社,61-91頁

大日康史・菅原民枝(2006)「1QALY獲得に対する最大支払い意思額に関する研究」『医療と社会』16巻2号, p. 157-165.

(参考)
内閣府政策統括官(共生社会政策担当)『交通事故の被害・損失の経済的分析に関する調査研究報告書』2007年3月

日本の統計的生命価値のその他の推計については、下記報告書の「参考資料5」で展望されている。
内閣府政策統括官(共生社会政策担当)『平成23年度交通事故の被害・損失の経済的分析に関する調査報告書』2012年3月

(関連する過去記事)
『感染症対策の評価に用いる統計的生命価値』

『感染流行の第1波を乗り越えることで得たもの(そのX)』

『感染流行の第1波を乗り越えることで得たもの(そのY)』

アクセスカウンター
  • 今日:
  • 累計:

岩本康志の著作等
  • ライブドアブログ