岩本康志のブログ

経済,財政の話題を折に触れて取り上げます。

COVID-19

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「命か経済か」の問題設定の終焉

 新型コロナウイルス感染症は個人の健康を損ねるだけでなく、社会の健康も損ねる。それは、感染症の社会的な負荷が特定の階層に偏り、社会の分断を招くからである。感染症による健康被害は高齢者に偏り、対策の負担は現役世代に偏る。オミクロン株の流行以降、この偏在が深刻になってきている。
 オミクロン以前にはこのような偏在の問題はありながらも、高齢者以外でも重症化率、致死率は季節性インフルエンザを大きく上回り、社会の全員にとっての共通の脅威とみなすことができた。第1波での緊急事態宣言時は対策も模索していた段階であって、一律の活動制限がとられたことから、対策の負担も(濃淡はあるものの)全体に及んだ。このことから、感染症対策を経済学的に考える際には、問題の第一次近似として、社会の構成員を1人の「代表的個人」に代表させて、その個人が直面する「健康と経済のトレードオフ」(「命か経済か」)として描写することができた。下の図は、拙稿「新型コロナウイルス感染症と経済学」にある図であり、人的被害を減らそうとすれば経済的被害を大きくしなければいけないトレードオフが示されている。黒丸は選択肢のひとつを示している(接線の意味は拙稿を参照されたい)。
「命か経済か」の問題設定の終焉1
 筆者の2020年のブログ記事「感染流行の第1波を乗り越えることで得たもの(そのZ)」では、感染症対策によって健康被害を減少させる価値と社会経済活動を制限する費用を日本社会全体の集計値で考量して、あるべき対策を考えるという問題設定をとった。「感染症対策の厚生経済学:都市封鎖の事後評価」で展望した米国と英国の都市封鎖の費用便益分析も、このような設定に基づいている。もちろん対策の受益と負担が偏在する問題の検討も重要であり、完全に無視してよいわけではない。

 オミクロン以降、この偏在がむしろ感染症対策の問題の本質となった。高齢者を除いては病状の程度が深刻でなくなったとともに、対策の負担が若者に重くのしかかる。このため、高齢者以外にとっては感染症対策が自身のためよりも高齢者のためのものとなっている。ここで若者とは社会人となる前に様々な経験を積むべき子供から学生までの年齢層を念頭に置いており、感染症対策によって人との接触の機会を長期間奪われることで、今後の人生に大きな悪影響が心配される世代である(いまは概念的な議論をしているので、厳密に範囲を定義することは重要ではなく、このような被害を受ける層として、社会人となって間もなく、経験を積むべき世代まで含めてもよい)。オミクロン前の状況のように、社会全体での便益が費用を上回れば、対策を実施するという判断が妥当しなくなる。深刻な不利益を被る階層が発生する選択肢を社会的に善い、といえるかどうかは、倫理学、そして経済学の分野では厚生経済学の大きな問題になる。
 代表的個人にとっての「健康と経済のトレードオフ」では同一人にとっての問題と設定されていることから、対策による健康的被害減少の貨幣価値と経済的被害の貨幣価値を比較することの問題はないが、個人間での効用の比較には慎重となるべきであり、異なる個人の効用の変化を貨幣価値化して、その合計が正か負かで社会の厚生が改善するか悪化するかを判断すればよいわけではない。政策評価で用いられている費用便益分析ではあたかもそのような判断をしているように見えるが、本稿の後半でもう少し詳しく説明する通り、実際はそうではない。あくまでも目指すものは全員の厚生の改善である。ある政策で不利益を被る個人や集団が他の多くの政策で利益を享受して、全体ではすべての人の厚生の改善が実現されるだろうという考え方が、現実の政策実行の理論的基盤となっている。しかし、その限界は当然にわきまえなくてはならず、ある特定の階層(ここでは若者)の不利益が解消できない事態は認められない。
 人格形成や人間関係の構築で濃密な時間を送っている若者には、いまの時間はかけがえのないものである。そのため、感染症対策の負担は取返しのつかないものになっている。他の政策の受益で埋め合わせができないものであるならば、このような負担を負わせることを正当化することはできない。

 若者にとって深刻なリスクではないにもかかわらず、感染症対策として行動制限を求めることのもうひとつの問題点は、この世代から高齢者への感染経路が問題視されていることである。いわば、若者は高齢者に感染させることに対して、大きな罰を受けている。
 故意や悪意があれば別であるが、注意していても結果的に他者に感染させることを社会的に問題としたり、罪に問うようなことはこれまではなかった。かりにその責任が問われるとすると、感染対策をとっていても感染は起こっているのであり、絶対確実に感染を起こさせないことを目指せば、社会経済活動は著しく委縮する。しかも、どうやって感染するかがわかっていなければ、因果関係を立証することも難しい。感染させることの責任を重く問わないことは、円滑な社会経済活動を営むうえでの知恵である。
 しかし、現状の対策では、若者の行動が高齢者の感染につながることが強調されている。しかも、その間には何段階もの感染があり、明確ではない因果関係に基づいて若者は大きな罰を受ける。
 似た構図は、季節性インフルエンザでの学級閉鎖に見られる。疫学では、子どもの感染予防の社会的な利益として、学校で感染した児童が同居の祖父母等の高齢者に感染させることで生じる被害を抑制することが重視される。しかし、この学級閉鎖の根拠は一般の人にはあまり認識されていない。一般人が学級閉鎖を容認しているのは、インフルエンザは子どもにとっても重症化や死亡のリスクが高く、子どもを護る利益が理解できるからである。また、学級閉鎖は数日で終了し、学習の遅れも何とか取り戻せる。
 しかし、オミクロン以降では、かりに若者から高齢者への感染経路を疫学研究で立証できたとしても、若者に利益がなければ、インフルエンザと同じように若者の行動制限で高齢者を護るという考え方は、社会的に容認されるわけではない。
 以上のことから、現在のコロナ対策を続けると、誰かに感染させるかもしれないというだけで問題視され、道義的に批判され、さらには加害者へ(加害者ではないかもしれない人へも)罰を与えるという方向に向かってしまう。

 以上の2つの問題点(特定の階層に重い負担を負わせる、感染の責任を重く問う)を認識すれば、これまでの「命か経済か」のような問題設定は、オミクロン以降の問題の本質をとらえ損なっている。では、本当の問題点を解決するにはどうすればいいのか。このような問題を生じさせない形で、高リスク層(高齢者)をどのように感染症から護るのか、を原点に立ち戻って考える必要があるだろう。
 特定の階層に重い負担を強いて補償がされない対策は倫理的に容認できない。高齢者に対する予防と治療に万全を期すことは必要としても、公衆衛生的介入は高齢者の生活範囲に限定して、生活レベルで具体性をもつリスクの軽減に努めるのが適当である。因果関係の見えにくい、直接に関係ない社会経済活動を、高齢者にも感染が波及するという理由で制限することは避けるべきである。

補足説明:経済政策の規範的判断
 以上が本文で、ここからは本文への補足説明である。
 本文を読みやすくするため、政策がある階層の効用を改善するが、他の階層の効用を悪化させる場合の判断については短くまとめたが、以下では、厚生経済学がこの問題をどのように考えているのかをもう少し詳しく説明する。公共経済学、ミクロ経済学の教科書ではさらに詳しく説明されているが、政策への応用について詳しくのべたものに八田(2009、第20章以降)がある。また、費用便益分析との関係を論じたものに金本(1999)がある。
 ここで議論したい状況を概念化したのが、下の図になる。社会の構成員を2つの階層に分け、それぞれをAさんとBさんで代表させる。中心が感染症対策実施前の状況であり、感染症対策の選択肢をAさんとBさんの厚生の変化によって図の中に位置づける。Aさんの厚生が改善する状態を右側、悪化する状態を左側に置き、Bさんの厚生が改善する状態を上側、悪化する状態を下側に置く。
「命か経済か」の問題設定の終焉2

 Aさんを高齢者、Bさんを若者とすると、オミクロン以降の感染症対策の帰結(対策をとった場合ととらなかった場合の比較)は中心から左下の領域にあるととらえられる。このような対策の帰結をどのように考えるべきか。
 パレート原理では、上の図で両者の状態が改善する選択肢(中心から右上、白色の領域)は「善い」(正確には片方の状態が変化せず1人だけ厚生が改善する選択肢も含む。また「パレート改善」と呼ばれる)、両者の状態が悪化する選択肢(中心から左下、濃い灰色の領域)は「悪い」、どちらかの状態は改善するがもう1人の状態は悪化する選択肢(中心から左上と右下、薄い灰色の領域)は「善悪は判断できない」とする。
 パレート原理で判断できない選択肢を判断する基準にはバーグソン=サミュエルソン型社会的厚生関数があるが、実際の経済政策に対する適用は、累進的所得税による所得再分配にほぼ限られる。所得再分配では高所得者の厚生悪化と引き換えに低所得者の厚生が改善されるが、この高所得者の厚生悪化は社会的に受け入れられているからである。それでも高所得者の財産権の侵害ではないかとの議論はあって、それへの反論にはルソーの社会契約論が駆り出される。
 経済政策の多くは、所得再分配をともなう税収によって、公共サービスを提供するものに類型化される。このとき、公共サービスの受益は特定の層(地域、年齢、産業)に偏ることが多く、また特定の階層に不利益をもたらすことがある。
 このような政策の選択肢を判断する基準に補償原理があり、費用便益分析の理論的基礎となっている。補償原理では、選択肢で利益を受ける人が犠牲になる人に補償をすることで、誰の厚生も悪化させることなく、誰かの厚生を改善することができるときに、その選択肢を「善い」とする。つまり、補償がおこなわれると選択肢がパレート原理で「善い」と判断できるときに、選択肢は「善い」と判断できる。
 補償原理では、上にのべた代表的個人の場合と同じように、AさんとBさんの厚生変化を貨幣価値化して、その合計が正になる選択肢を「善い」とする考え方がとられることになるが、このとき注意しなければいけない問題がある。
 まずは、細かい理論上の問題であるが、2つの選択肢のどちらも「善い」という判断になる可能性があって、選択肢を選べなくなる可能性がある(シトフスキー・パラドックスと呼ばれる)。この問題は、個人の選好をゴーマン型に制約すると排除でき、経済学でよく使われる選好の特定化がゴーマン型に属することから、費用便益分析の実用上はさほど問題とされない。
 2つ目の問題は、補償が実行されなくても、選択肢を「善い」と判断することである。このような補償は実務上不可能なことも多く、かりに補償の実行を要件に課すと、判断できない選択肢が増えて、多くの政策が採用されずに、現状維持にとどまってしまう可能性が高い。しかし、補償が実行されなければ、誰かの厚生が悪化した状態も「善い」と判断してしまうことになる。これだけを見れば、補償原理にも大きな問題があるように思える。
 これに対しての補償原理の擁護は、現実にはたくさんの政策が実行されるので、補償原理で「善い」とされる政策を積み重ねていけば、ある政策で不利益を被る個人や集団が他の多くの政策で利益を享受して、全体ではすべての人の厚生の改善が実現されるだろうと考える。これは「ヒックスの楽観主義」(あるいは「古典派の教条」)と呼ばれるが、証明された命題ではなく思想ないしは主張になるものの、現代の政策を支える基本的な理念となっている。しかし、その限界は当然にわきまえなくてはならず、特定の階層が継続して不利益を被る側に回ることは認められない。あくまでも目指すものは全員の厚生の改善である。

参考文献
岩本康志(2021)「感染症対策の厚生経済学:都市封鎖の事後評価」

岩本康志(2022)「新型コロナウイルス感染症と経済学」『医療経済研究』第33巻第2号、3月、109-133頁

金本良嗣(1999)「費用便益分析における効率と公平」社会資本整備の費用効果分析に係る経済学的問題研究会編『費用便益分析に係る経済学的基本問題』

八田達夫(2009)『ミクロ経済学Ⅱ』東洋経済新報社

関係する過去記事
「感染流行の第1波を乗り越えることで得たもの(そのZ)」

「国民の生命及び健康に重大な影響を与える」新型コロナウイルス感染症

 新型コロナウイルス感染症をめぐる現在の状況は、わけがわからなくなってきている。
 感染症法では、新型コロナウイルス感染症は、
「一般に国民が当該感染症に対する免疫を獲得していないことから、当該感染症の全国的かつ急速なまん延により国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれがあると認められるもの」
と位置づけられている。2日に出された4学会(⽇本感染症学会、⽇本救急医学会、⽇本プライマリ・ケア連合学会、⽇本臨床救急医学会)共同声明では、オミクロン株の⾃然経過を
「オミクロン株への曝露があってから平均3⽇で急性期症状(発熱・喉の痛み・⿐⽔・咳・全⾝のだるさ)が出現しますが,そのほとんどが2〜4⽇で軽くなります.順調に経過すれば,“かぜ”と⼤きな違いはありません.新型コロナウイルスの検査を受けることは⼤切ですが,検査を受けることができなくてもあわてないで療養(⾃宅での静養)することが⼤切です.
かかった後に重症化する⼈の割合は,厚⽣労働省から毎⽇報告されている資料から数千⼈に⼀⼈程度と推定できます.」
と説明している。
 4学会の見解を踏まえると、現状は、
国民の生命及び健康に重大な影響を与える1
となっている。
 一般常識では矢印の因果関係がつかめないだろう。ここは、医療提供体制に関わっている。新型コロナウイルス感染症分科会が2021年11月に示し、都道府県の対策の指針となっている「新たなレベル分類の考え方」では、感染症の流行をレベル0からレベル4に分類しているが、深刻な状況の上位2レベルは、
レベル3(対策を強化すべきレベル)
⼀般医療を相当程度制限しなければ、新型コロナウイルス感染症への医療の対応ができず、医療が必要な⼈への適切な対応ができなくなると判断された状況である。
レベル4(避けたいレベル)
⼀般医療を⼤きく制限しても、新型コロナウイルス感染症への医療に対応できない状況である。
としている。つまり、コロナ患者が増えると一般医療が後回しにされ、そこで医療を受けられない患者が出て、国民の生命と健康に重大な影響を与えることになる。新型コロナウイルス感染症の病状の程度は関係なく、患者数が問題になる。
 そして現在は、新型インフルエンザ等対策特別措置法が適用されており、行動制限が実施されるかもしれない。後藤茂之厚生労働相は7月29日の定例記者会見で、以下のように発言している。
「現下の感染状況等を踏まえれば、新型コロナウイルス感染症等について、引き続き感染症法上の新型コロナウイルス感染症に位置づけて、医療がひっ迫するような状況になれば特措法に基づく強力な感染拡大防止対策をとれるようにしておくということは、今でも必要な状況なのではないかと考えております。
(中略)
現状においては、今の感染力の強い新型コロナのBA.5の状況等を考えれば、伝家の宝刀とも言うべき、いわゆる特措法上に基づく強力な措置の可能性を残しておくべきだと考えています。」
 以上から、新型コロナウイル感染症対策の現在の構造は、
国民の生命及び健康に重大な影響を与える2
となっている。
 医療需要が提供能力を超えた場合、誰かが後回しになるという冷たい現実がある。現状の対策はコロナ患者を優先して一般患者を後回しにするが、4学会声明は症状の軽い患者を後回しにする(受診させない)という別の体制を提案したことになる。
 4学会声明の体制(オレンジ色)を上の図に加えると、
国民の生命及び健康に重大な影響を与える3

となる。オレンジ色の経路をたどれば、国民の生命及び健康に重大な影響を与えることがいったんは回避される。さらに流行が拡大して受診や入院が必要な患者が増えれば、その段階であらためて一般医療との間の選択が迫られるが、そこにいたらなければ行動制限に至る連鎖は断ち切られる。

 では、症状の軽い患者が自宅で療養して、季節性インフルエンザか風邪並みに扱えば、コロナ禍は終わるかといえば、そうではない。
 結局、国民の生命及び健康に重大な影響を与えるかどうかは、患者数と医療提供能力の関係で決まる。経済学の言葉で言えば、医療の需要と供給で決まる。かりに新型コロナウイルス感染症が季節性インフルエンザと同じ病状の程度であったとしても、流行が拡大すれば重大な影響となる。
 そして、季節性インフルエンザの流行より規模が小さくても、重大な影響を与えることも起こり得る。これは、季節性インフルエンザはかかりつけ医の役割を担う内科診療所で診療してもらえるが、新型コロナウイルス感染症の対応は発熱外来を設置した医療機関に限られ、医療の対応力がはるかに小さいからである。極端な話として、季節性インフルエンザと比較して病状が軽くて、流行が小さくても、診療する医療機関が少なければ、国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれがある。
 感染症法では新感染症・一類感染症・二類感染症は原則、感染症指定医療機関に入院することになるが、新型コロナウイルス感染症はそのように運用されていない。新型コロナウイルス感染症が「二類相当」(こう呼ぶのは不正確であるが)だから一般医療機関が診療できないわけではないので、五類感染症に位置づければ自動的に一般医療機関が診療するわけではない。もっと多くの診療所に発熱外来を設置してもらいたいが、それがかなわないのが、現在の状態である。

(参考文献)
4学会共同声明「国⺠の皆さまへ 限りある医療資源を有効活⽤するための医療機関受診及び救急⾞利⽤に関する4学会声明」(2022年8月2日)

「新たなレベル分類の考え方」(2021年11月8日、新型インフルエンザ等対策推進会議新型コロナウイルス感染症対策分科会) https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/taisakusuisin/bunkakai/dai10/newlevel_bunrui.pdf

「後藤大臣会見概要」(2022年7月29日)

コロナ対策の問題の核心

 2020年4月から2年間、医療経済学会の会長をしていたときに学会サイトに「会長メッセージ」を掲載していましたが、先日私のサイトに転載して、再公開しました。
 学会事務局に原稿を渡したのは2020年4月20日でしたが、学会の使命を説明するなかで、新型コロナウイルス感染症のことを、以下のように触れています。

「高齢化の進展、生活水準の向上、医学の進歩に呼応して、医療資源は感染症から生活習慣病への対応にシフトしてきました。しかし、新型コロナウイルス感染症の世界的流行は、こうした変化をとげた医療提供体制を崩壊させる脅威となりました。」

 学会のことを伝える短いメッセージの中なのでごくわずかの文章ですが、欧米よりもはるかに少ない患者数で医療崩壊間際まで追い込まれた日本の医療提供体制を見て、ここが日本のコロナ対策の問題の核心だと認識しました。同年5月3日のブログ記事「新型コロナウイルス感染症による医療崩壊」で、この課題を敷衍しましたが、この段階で問題の重要さを理解してくれる人は少ないと考えて、少し緩めに書いています(結核病床数を書いてないのは失敗で、これは拙稿「新型コロナウイルス感染症と経済学」で修正しました)。
 現在の感染症病床・結核病床の規模で呼吸器感染症の大流行に応じられるわけはなく、流行期には一般医療機関が患者を診療する体制に移行するというシナリオが、事前に作成されていた新型インフルエンザ等対策の行動計画で採用されました。事前の計画通りやることが常に正しいとは限りませんが、これは限られた資源を有効に使う合理的なシナリオです。しかし、現実にはいったん一般医療機関が対応しない体制ができると、そこから移行できず、限定的な医療提供能力を超える流行があると社会経済活動が制限されることが続いています。
 一日で転換は無理にしても、2020年春のロックダウンで稼いだ時間で転換が進められなかったのかとの疑問から、これまでも議論されてきた課題ですが、医療提供体制がなかなか需要に応じて変化できないことは、社会的入院、療養病床の再編、地域医療構想など、高齢化の進展のなかで20世紀から延々と続く課題として現れました。同じ根をもつ問題が感染症の分野でも現れたのが、今回の事態です。
 根にある問題は大きくは、利益集団を通して医療提供側の利害が政策に反映されやすいことと、厚生労働省が経済的インセンティブをうまく使いこなせないことの2つです。後者では、コロナ病床を確保するがコロナ患者を受け入れないと利益になる補助金を設計して、今回もやらかしてくれました。
 大部分の患者の治療が風邪と同じ対症療法で、それで回復する病気によって危機的状況に陥る医療提供体制を見ると、治療にあたる医療従事者が大変な状況であることは理解したとしても、体制に何か問題があるということに、多くの人が気づきやすくなりました。しかしながら、根にある問題に触らず、コロナ対策を表面的に変更することを求めるだけでは、そう簡単に解決には向かいません。現在の事態をきっかけに、根にある問題が解決に向かうならば、いまが産みの苦しみです。

(参考文献)
岩本康志(2020)「会長メッセージ」

岩本康志(2022)「新型コロナウイルス感染症と経済学」『医療経済研究』第33巻第2号、109-133頁

(関係する過去記事)
「新型コロナウイルス感染症による医療崩壊」

特措法による感染症対策に対して個人ができる対策

新型コロナウイルス感染症対策本部はいつ廃止できるのか」では、現在のインフルエンザ等対策特別措置法の適用をいつまで続けるのかについて論じた。やめる場合は新たな行動を起こすので、その考え方、手続きの説明に紙数を費やした。続ける場合は現状維持なので考えることはなさそうに見えるが、個人レベルでは考えておいた方がいいことがある。

 新型コロナウイルス感染症の発生以来、市民も医療者も政府も感染症対策に並々ならぬ努力と犠牲を払ってきた。特措法の適用を続けるなら、そのときの感染症対策の努力と犠牲の意味をどう考えればいいのだろうか。
 将来のことは不確定だが、神頼みのシナリオをメインシナリオとするわけにはいかないとすれば、現在の状況(新型コロナウイルス感染症の蔓延)がいつまでも続くことをメインシナリオとすることが妥当である。だとすると、してはいけないことは、「一時的にしかできない無理を重ねる」ことである。負荷が高くても終わりが見える状況でならできる努力を、終わりが来ないまま続けていては、人間は倒れてしまう。これでは感染症対策で命を救っているのか、命を奪っているのか、わからなくなる。特措法に基づく対策は、流行が終わらないことを前提として、それに耐えられる負荷までにとどめるのが無難だろう。一言でまとめると、「持続可能でない努力はしない」。

(関係する過去記事)
「新型コロナウイルス感染症対策本部の廃止」

「新型コロナウイルス感染症対策本部はいつ廃止できるのか」

新型コロナウイルス感染症対策本部はいつ廃止できるのか

 コロナ対策はいつまで続くのだろうか、そう考えている人は多いだろう。現在は新型インフルエンザ等対策特別措置法(以下、「特措法」)に基づく政府対策本部が設置されている有事の体制であるが、どういう条件が整えば法令に即してこれを廃止して、平時の体制に戻すことができるのだろうか。先日公開した拙稿「政府対策本部の設置と廃止:事例研究 新型コロナウイルス感染症」を使って考えてみよう。なお、拙稿では法令と論点をくわしく解説している。

 特措法第21条によれば、以下の2つの条件のいずれかが満たされなくなった場合に政府対策本部は廃止される。
① 新型コロナウイルス感染症にかかった場合の病状の程度が、季節性インフルエンザにかかった場合の病状の程度に比しておおむね同程度以下であることが明らかとなったとき
② 国民の大部分が当該感染症に対する免疫を獲得したこと等により「新型コロナウイルス感染症」と認められなくなったとき
これは政府対策本部を設置する条件のいずれかが満たされなくなることと同じであり、設置と廃止の条件は整合性がとれている。
 ②にある「新型コロナウイルス感染症」とは、感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(以下、「感染症法」)で定義された、
「新たに人から人に伝染する能力を有することとなったコロナウイルスを病原体とする感染症であって、一般に国民が当該感染症に対する免疫を獲得していないことから、当該感染症の全国的かつ急速なまん延により国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれがあると認められるもの」(第6条第7項)
を指す。後の議論に関連するが、①は特措法由来、②は感染症法由来、である。

 ①の条件に関する病状の程度の比較については、現在の「新型コロナウイルス感染症対策の基本的対処方針」(2019年11月19日決定、2022年7月15日変更)では、
「令和4年1月から2月までに診断された人においては、重症化する人の割合は50歳代以下で0.03%、60歳代以上で2.49%、死亡する人の割合は、50歳代以下で0.01%、60歳代以上で1.99%となっている。なお、季節性インフルエンザの国内における致死率は50歳代以下で0.01%、60歳代以上で0.55%と報告されており、新型コロナウイルス感染症は、季節性インフルエンザにかかった場合に比して、60歳代以上では致死率が相当程度高く、国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれがある。ただし、オミクロン株が流行の主体であり、重症化する割合や死亡する割合は以前と比べ低下している。」
と説明されている。元の資料は、厚生労働省の新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボード(2022年4月13日、第80回)への厚生労働省提出資料である。元資料からは、単純に計算した全体の致死率は0.31%と計算できる。

 高齢者の新型コロナウイルス感染症の致死率が季節性インフルエンザの致死率まで下がるとすれば、
(A) ウイルスが変異して弱毒化する
(B) 治療薬、治療法が開発されて、劇的な効果をあげる
ぐらいの道しかない。新型インフルエンザがやがて季節性インフルエンザ並みになるのは経験則であるが、病原体の異なる新型コロナウイルス感染症が季節インフルエンザ並みになることをある程度の確度で予測できるだろうか。できないとすれば、(A)は神頼みである。(B)は人間の努力によるが、ハードルは高く、成算はない(神頼みに近い)。つまり、どちらにしても、いつ実現できるのかに成算はない。
 なお、人間の努力することのなかで、この条件を満たすことにほぼ無関係とみられるのが、
(a) 一般市民が感染症対策をする
(b) 医療者が患者を治療する
(c) 政府が感染症対策をする
である。

 ②は、どこまでの免疫をもてばよいのかはあいまいである。もし①と同じ条件を課すなら、結局、
(A) ウイルスが変異して弱毒化する
(B) ワクチンが改良されて、劇的な効果をあげる
ぐらいの道しかない。①と同じく、これらは神頼みか、神頼みに近い。人間の力でできることは、
(C) ワクチン接種をもって免疫を獲得したと割り切って、感染症法上の「新型コロナウイルス感染症」でなくなったと認める
ことである。
(C)の決断をすると特措法が適用されないので、①の条件は関係ない。ただし、①の条件との整合性が問われる可能性もあるので、①の条件も見直した方がよいかもしれない。特措法での政府対策本部の廃止の条件は、設置の条件が満たされなくなることと同じであり、設置と廃止の条件は整合性がとれている。しかし、このような条件を課すことは未知の状況での意思決定には不都合が生じる場合がある。季節性インフルエンザのリスクは許容して平常の生活を送っているときにそれを上回るリスクがある新たな感染症が現れて有事の体制をとることに意味があったとしても、その段階でその感染症のリスクがやがて季節性インフルエンザの水準まで弱毒化するかどうかはわからない。結果として弱毒化しなければ有事の体制が永続してしまう。季節性インフルエンザを超えるリスクを許容して平常の生活を送るという選択をこれまで迫られてこなかっただけで、それを排除する必然性はない。感染症のリスクの長期的帰結が見通せないときには、設置と廃止の条件を違えた方が、むしろ合理的な選択がおこなえる。
 なお、法律上の「新型コロナウイルス感染症」でないことにしただけだと、感染症法の位置づけがなくなり、法律上はただの風邪になってしまう。法改正には時間がかかるので、感染症法上の対策が必要であれば、いったんは(特措法の適用とならない)指定感染症に政令で指定し、法改正で適当な位置づけを与えることになるだろう。

(C)の法律上の「新型コロナウイルス感染症」でなくなったと認めることは、人間の力でできる。時期の制約はない。すぐにでもできるし、いつでもできる。ただ決断すればいい。
 この決断をしない場合、政府対策本部の廃止は神頼みに近い(A、B)。感染症対策(a、b、c)にわれわれが一層の努力と犠牲を払ったとしても、致死率が下がるわけでも感染症が根絶されるわけでもないので、政府対策本部の廃止要件は満たされない。治療法、治療薬、ワクチンの開発は、季節性インフルエンザでも他の疾病でもおこなわれていることであり、特措法とは関係のない努力である。特措法に基づく努力で得るものは、収束の見えないなかで感染を少なくすることである。このことを踏まえて特措法の適用をいつまで続けるのか考える必要がある。どのような選択をするかは、人々の価値観に依存するので、ここでは以上のような選択肢の整理までにとどめる。

(参考文献)
「政府対策本部の設置と廃止:事例研究 新型コロナウイルス感染症」https://iwmtyss.com/Docs/2022/SeifuTaisakuHonbunoSecchitoHaishi-JireiKenkyu.pdf

(関係する過去記事)
「季節性インフルエンザの致死率」

「新型コロナウイルス感染症対策本部の廃止」

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