岩本康志のブログ

経済,財政の話題を折に触れて取り上げます。

諸事雑感

Yahoo! ブログから引っ越しました。

財政破綻への道はアベノミクスで舗装されている

 11日の朝日新聞朝刊に,私のインタビュー記事が掲載されました。「アベノミクスでいいのか」という題で,片岡剛士氏とインタビューと合わせての掲載ですが,インタビューは別々に行われており,私は今日の紙面ではじめて片岡氏の記事を見ました。そういう経緯で論点が噛み合うには至らなかったのですが,とりあえず私の論点についてここで補足します。
 アベノミクスの評価という大きな話題ですので,論点は多岐にわたり,紙数におさまるように記者が取捨選択することは避けられません。なぜアベノミクスが財政破綻に結び付いていくのか,はまだ起こっていないことがなぜ起こるのかを読者に想像してもらわなければいけないので,説明に苦労を要します。そのために注意して論点を組み立てたのですが,出発点の論点(国債の性格)が落とされてしまったので,うまく私の考えが伝わっていないかもしれません。それを補い,なぜアベノミクスが財政危機を呼び寄せるのかを再論します。

 いまの日本の財政運営を考える場合,巨額の債務を抱えているということをおさえておかないといけません。財政運営の戦略は,つつがなく債務を償還できる戦略であることが何よりも必要です。株式は業績が悪ければ配当しなければいいですが,国債は,経済と財政の状況がどうであれ,期限が来れば利子と元本を償還しなければいけません。国債が安全資産であることの条件は,経済が低迷して財政状況が悪くなる事態でも確実な償還ができるように政府が考えていることです。
 そこで問題になるのは,従来は堅実に低めに見積もられた経済成長の前提のもとで財政健全化が考えられていたのが,6月にまとめられた骨太の方針では,実質2%超,名目3%超という高い成長率の前提に変えられたことです。成長戦略とデフレ脱却が成功して,このような高成長が実現すれば喜ばしいことですが,問題は以前の政権も皆,成長戦略を実行してきたにもかかわらず,残念ながら高成長は実現しなかったし,その間に日本経済はリーマン・ショックや東日本大震災の大きなショックに見舞われて,財政は改善しませんでした。従来のような低目の成長に終わる不本意な事態を避けたいのは山々ですが,避けたいと思えばかならず避けられるようなものではありません。低成長になったときのことを考えないのは,巨額の国債を抱えたもとでの財政運営では危険なことです。不幸にも悪い方向に転んだ場合,「これまでも起こったことがまた起こるとはまさか思わなかった」という言い訳は通りません。難しい経済理論を使わなくても,ごく常識の範囲内(願望はかなわないこともある)で,骨太の方針は,財政運営戦略(債務償還計画)の体をなしていないことがわかります。そして,政権の財政運営の当事者能力が疑われます。

 以上のように,きわめて基本的なポイントを踏み外してしまったことが財政破綻への道の出発点です。これに,歳出・歳入の改努力をしないこと,政府から通貨発行益をあてにする発言が出ること,日銀が政府に接近した状態で国債を大量に購入していること,等の「環境整備」が進んでいます。

 金融政策では原油安に関する論点が記事に入りませんでした(記事に入った耐久消費財価格下落の論点より,こちらの方が含意が深くて重要と私は考えています)。それを補って,要約します。

 日銀の異次元緩和は,財政のリスクを増やすという意味で有害で,物価目標の達成に失敗したという意味で無益でした。量的緩和からの出口で日銀の財務状況が悪化する議論がだいぶ広まるようになりました(実は,15年以上も前からある議論です)。日銀は政府の子会社なので,日銀の財務状況の悪化は政府の財政状況の悪化に直結します。
 2年程度の期限をつけた物価目標の達成は失敗だったわけですが,日銀はその理由に原油安をあげています。しかし,原油安自体は国民生活にはプラスと考えられるので,原油価格変動については,物価目標を達成しようとすることは有害となります。
 また,食料(酒類を除く)及びエネルギーを除く総合指数(コアコアCPI)も目標の2%には遠いので,原油安を免責事項とすること(目標を達成できなかったことの言い訳と認める)こともできません。

 以上をまとめているうちに,インタビュー時に話していないことも色々と補足したくなりましたが,それは別の機会にまとめることにします。

 片岡氏と私は論点の立て方が違い,読者は主張がすれ違っているとお感じになっていると思うので,片岡氏の側の論点について少しだけコメントします。ただし,「片岡氏の意見として記者がまとめたもの」に対するコメントですので,「片岡氏は…」という言い回しは避けます。

 まず,アベノミクスの功績として,円安をあげています。――私の円安の評価は,3月4日の日本経済新聞朝刊(経済教室)「『官製春闘』,経済かく乱も」でのべたことがあります。国内に生産を残していた一部の輸出企業は恩恵を受けましたが,大部分の国民には賃金上昇をともなわない物価上昇になったことから,功績としては評価できません。
 つぎに,2014年4月の消費税増税がインフレ期待を後退させたとしています。――将来を織り込んだ予想が変化するのは,織り込まれていない何か(サプライズ)が起こるときです。この増税はサプライズではなく,野田政権時に決まったことを予定通り実施したものです。別の箇所では期待に働きかける政策が重視されていますが,「期待に働きかける政策が重要であり,その前提として人々は将来を見越して行動するから,計画された消費税が予定通り増税された時点では期待に変化はない」と主張するか,「人々はなかなか将来を見越して行動できないから,計画された消費税増税の影響は実行時点で現れるものであり,期待に働きかける政策は機能しない」と主張するかのどちらかなら首尾一貫しています。しかし,消費税と他の政策で期待の持ち方が違う,という議論はその根拠をきちんと説明しないと恣意的なものになります。記者のまとめ間違いでなければ,別の機会で片岡氏による詳細な議論を拝見できればと思います。

関係する過去記事



参考文献
翁邦雄・白塚重典・藤木裕(2000),「ゼロ金利下の量的緩和政策:その効果およびリスク・副作用」,岩田規久男編『金融政策の論点:検証・ゼロ金利政策』,東洋経済新報社,143-182頁

政策を間違えた後に起こること

 白川日銀総裁時代にデフレ脱却が議論されていた頃,リフレ派は「金融緩和でデフレを脱却できる」と主張していたが,それを「誰でもわかる簡単な方法」として一般への普及活動をしていた(たとえば『日本経済復活 一番かんたんな方法』と題した本を出版するとか)。誰でもわかるレトリックに色々と問題があるので(私を含めて)懐疑的な専門家は大勢いたのだが,信じた一般の人(に加えて政治家)もだいぶいたようだ。このような話を聞かされたとき,普通に注意深い人なら,「そんなに簡単な方法でデフレを脱却できるのなら,日銀はなぜそれを実行しないのか」という疑問をもつ。リフレ派はこれに答えないと,疑問を抱いた人は,別の説明(デフレ脱却は簡単なことではないし,インフレになるまで国債を買い続けるのは副作用も大きいので,日銀はやらない。)に納得してしまうだろう。
「いや,日銀の本心は日本経済をだめにしたいからだ」という回答は説得力がない。金融政策は総裁一人で決められるわけではないので,組織ぐるみの行動である。表では日本経済のためを考えて努力しているふりをして,裏では日本経済をだめにするために,どんなに批判されても頑張る人間で組織を固めないといけない。きっと採用面接では,日本経済をだめにしたい強い信念を持つ人を見極めて採用しているのだろう。…と,細部を詰めると,話がどんどん荒唐無稽になる。
 そこで,リフレ派は,「簡単にデフレ脱却すると,これまでデフレ脱却は簡単でないといっていた日銀の主張が間違いだったことがばれてしまう。それを避けたいからだ」という説明をした。「自分の間違いをなかなか認めがたい」という人間の性から,主張を補強しようとしたわけだ。そういう人間の性はあるだろうが,程度の問題である。また,人間観なので,個人の主観にもよる。この説明で説得された人もいれば,「国民生活に関わる本当に重大なことなら,間違いを認めて修正するのではないか」と疑問を持ち続けた人もいただろう。

「政策を間違えたとき,当事者はその間違いを直したがらず,不適切な政策が行われ続けて経済に悪影響を与える」というのは,リフレ派の主張の根幹をなす。

(続き)学位取り消し要件の解釈

 いつまで続くんだい・・・

 多くの大学が同じ文言をもつ,学位取り消し要件について,早稲田大学の調査委員会の報告書は,以下のように解釈した。
 早稲田大学位規則第23条第1項上の「不正の方法により学位の授与を受けた」における「より」の文言は、不正の方法と学位の授与という結果との間に因果関係が必要であることを示している。つまり、学位の授与の過程、その前提となる博士論文の作成過程等に不正の方法があっても、その不正の方法と学位の授与との間に因果関係がなければ、学位を取り消すことができない。因果関係とは「ある行為がなければ、その結果がなかったという関係が認められること」を意味している。したがって、因果関係があるといえるためには、少なくとも、不正の方法が学位授与(その前提としての博士論文合格)に対して重大な影響を与えることが必要だといえる。
(50頁,強調筆者)
 これまでの諸大学(早稲田大学を含む)での学位取り消しは,不正行為の存在を要件としておこなわれている。ここにその事例を並べるのは大学人として慙愧の念に堪えないので,東京大学と早稲田大学の事例のみでお許し願いたい。


 報告書は,民事再生法の条文解釈を引いて,不正行為と学位授与の因果関係を要件とする論理を出してきた(余談だが,なぜ民事再生法? 博物館法施行規則第17条とかは使えなかったのだろうか)。これまでの慣行とは違う解釈だ。

 東大は,2010年に世間をお騒がせしたセルカン事件の事後対応のなかで,「学位授与の取消しに関する手続についての申合せ」(ここの参考資料15)を作成して,「不正の方法により学位の授与を受けた事実」を
当該学位の授与に関して、データその他研究結果の捏造、改ざん、盗用等学位審査論文の作成に係る不正行為又は金銭の授受等学位審査に係る不正行為が存すること
のように,「不正行為の存在」と定義した。このため,かりに東大の規則が適用されるとしたら,報告書での因果関係を適用した議論は通用せず,報告書48頁で,一般に言う「不正行為」(報告書の用語で「不正の方法」)の存在が認定されたことで,学位取り消しの結論になる。
 学位取り消し要件の解釈が,「東大型」と「早大型」(早稲田大学で機関決定されているわけではないので,「早大調査委員会型」が正確か)に分かれたわけだが,じつは因果関係論の適用の有無で分かれるのではない。因果関係の推論で必要な「不正がなかった」状態の定義には幅があるため,どの定義を用いるかで,違った種類の因果関係の議論ができてしまう。したがって,「東大型」と同じ帰結になる因果関係に基づく解釈をいくらでも・・・とは言わないが,私は2つ考えついた。
 なお,報告書の因果関係の議論が実際に現れる52頁以降では,「不正がなかった」とはどのような状態なのかを明確にしていないので,不十分な因果関係の推論である。
 いずれにせよ,学位取り消し要件の「早大型」解釈の帰結としては,論文のなかで重要度が落ちる箇所にある不正行為はセーフになる。「東大型」と「早大型」の2つの解釈が現れたので,同様の文言の学位取り消し要件をもち,解釈を明示していない大学は,混乱を避けるために,早めに解釈を明示しておくのが良いのではないか。
 個人的な見解であるが,これまでの慣行に沿った「東大型」を採用するのが無難である。
「早大型」で運用する場合に大きな問題となると思われるのは,不正行為が学位授与に影響を与えたかどうかを調査することは格段に大変であり,かつ関係者で見解が一致しない可能性も多分にあることだ。裁判が起こるかもしれず,問題が決着するまでに,とてつもない労力がかかりかねない。
 第2に,学位授与前に不正行為が発覚すれば重要でない箇所であっても,そのまま学位授与はありえないが,学位授与後は学位が取り消されることはない,つまり「逃げ切りセーフ」のルールであり,一般からは釈然としないと見られるだろう。「東大型」は学位授与までの倫理を授与後もずっと維持する,という趣旨になる。

 学位論文に関する不正問題が起こることは審査側にも重大な責任があり,審査員と大学が猛省すべきことは当然である。報告書は「逃げ切りセーフ」ルールを編み出したために,さらに強いメッセージを発することになった。それが報告書末尾の文章である。
 本来、学位を授与すべきでないことが明白である博士論文であったとしても、何らかの事由により博士論文の審査において合格とされ、その学位請求者に博士学位が与えられてしまった場合、早稲田大学において、「不正の方法により学位の授与を受けた事実」が学位取り消しの要件となっている以上は、この事実が認められない限り、学位を取り消すことはできない。このことは、ひるがえって、早稲田大学が学位を授与する行為には、それほどの重みがあることを意味する。
 早稲田大学において学位授与の審査に関与する者らには、その責任の重さを十分に認識した上で審査に関わることが求められる。
(78-79頁)
 東大には当てはまらないわけだが,よく考えると,早稲田大学から学位論文の審査委員となるように依頼を受けた場合には,このメッセージは私にも向けられることになる。出発点の「逃げ切りセーフ」ルールは支持できないのだが,さてどうしたものか・・・

(続き)不正行為とは行動規範からの逸脱

 7月20日のブログ記事で,早稲田大学に注文をつけた形になったが,個人的な独り言である。個人的見解の続きとして,あと少し大事なこと(調査委員会の研究不正に対する考え方)を追記する。
 日本学術会議法により政府の特別機関として設置された日本学術会議による「科学者の行動規範-改訂版-」(2013年1月,以下「行動規範」)の第7[誤記訂正:2014年7月23日]条は,
科学者は、自らの研究の立案・計画・申請・実施・報告などの過程において、本規範の趣旨に沿って誠実に行動する。科学者は研究成果を論文などで公表することで、各自が果たした役割に応じて功績の認知を得るとともに責任を負わなければならない。研究・調査データの記録保存や厳正な取扱いを徹底し、ねつ造、改ざん、盗用などの不正行為を為さず、また加担しない。(強調筆者)
のように,不正行為を禁じている。日本学術会議は,行動規範の策定以前から不正行為に関する意思の表出をしているが,近年問題が大きくなっていることから,取り組みを強めている。最近では「研究活動における不正の防止策と事後措置-科学の健全性向上のために-」(2013年12月)を提言した。その冒頭は,不正行為を禁じる行動規範の趣旨を以下のように要約している。
科学と科学研究は社会と共に、そして社会のためにある。したがって、科学の自由と研究者の主体的な判断に基づく研究活動は、社会からの信頼と負託を前提として、初めて社会的に機能しうる。それゆえ、科学がその健全な発達・発展によってより豊かな人間社会の実現に寄与するためには、研究者がその行動を自ら厳正に律するための倫理規範を確立する必要がある。このため、研究者は、常に正直、誠実に判断、行動し、自らの専門知識・能力・技芸の維持向上に努め、科学研究によって生み出される知の正確さや正当性を科学的に示す最善の努力を払わなければならない。
 その他に「我が国の研究者主導臨床試験に係る問題点と今後の対応策」(2014年3月)も最近の取り組みだ。
 これらが科学者コミュニティにおける不正行為の考え方だ。早稲田大学も,これに即した憲章・行動規範をもつ。一方,調査委員会報告書は独自の考え方をとる。
上記規則第23条第1項に定められた「不正の方法」の定義に関する早稲田大学の規則等は存在しない。そのため、「不正の方法」とは何かについては、解釈に委ねられることになる。 この点、不正の方法にあたるには、まず不正(行為)がなければならないが、会社法等、「不正」の用語を含む法令の条文の解釈等に照らすと、不正(行為)とは、違法(行為)、すなわち「具体的な法規に反する」、「社会的相当の範囲を逸脱して、実質的に法秩序に反する」行為、及び「信義則に反する」行為をいうと解釈できる。 (報告書III.2.(3)a,48頁)
 いきなり会社法が出てきて驚くが(早稲田大学は株式会社で行動規範の範囲外でしたっけ?),文部科学省のガイドラインは難癖をつけるために脚注で言及されているのみであり,行動規範への言及はない。「ねつ造」,「改ざん」,「盗用」の用語はガイドラインとの関係で脚注に現れるだけで,本文には一切,現れない。
 不正行為を行動規範からの逸脱行為と位置づければよいところ,報告書は違法行為と信義則に反する行為と解釈するので,隔たりが大きい。
 まず,違法行為について,「研究活動における不正の防止策と事後措置-科学の健全性向上のために-」は以下のように説明している。
日本学術会議では、以前より不法行為ではなく不正行為という表現を用いてきた。その理由は、不法行為という表現を用いて法的規制の対象となる不法性、違法性を連想させることを避けるためであり、不正行為という表現が科学における様々な逸脱行為を射程に収めていることによる。(2頁)
 行動規範は科学者が「社会からの信頼と負託」を得ることを要求するが,報告書における信義則は,審査員との関係だけで議論されている。行動規範に即した早稲田大学の規則も無視することと合わせれば,報告書は行動規範を下敷きにしているが言及していないということではなく,まったく別の考え方に立脚していると考えられる。学位授与とは,学位請求者の生活の基盤および社会的関係を築く前提となる術を提供する商取引だと考えているかのようだ。その側面は含まれていようが,それだけでは,何か大事なものを見失っていないだろうか。
 報告書の論理を改変して,科学者コミュニティの考え方にある程度近づけることはできるだろうが,報告書はすでに提出されてしまったので,それはあるがままで処理しないといけない。大学がこれをそのまま採用することは,科学者がしたがうべきとされる行動規範を無視することになる。
 早稲田大学が大学であり続けるためには,科学者コミュニティの理解とは相容れない論理をもった調査委員会の学位取り消し要件の解釈は退けるべきだろう。

(続き)調査委員会報告書本文について

 小保方晴子氏の博士論文の調査委員会の報告書概要を読んでブログ記事を書いている最中に,報告書本文が公開されたようだ。どうやら,「にわかに信じがたい」と書いた論法が使われているようだ。
 報告書本文を読んだ私の感想だが,大学は,学位取り消し要件に関わる報告書の論理を採用するべきではないだろう。もともと,調査委員会の目的は,報告書の記述通り,学位取り消しの判断は含まれていない。
本調査の目的は、以下のとおりである。 
・ 本件博士論文の作成過程における問題点の検証 
・ 本件博士論文の内容の信憑性及び妥当性の検証 
・ 本件博士論文作成の指導過程における問題点の検証 
・ 小保方氏に対する博士学位授与に係る審査過程における問題点の検証
 報告書の論理は弁護士の仕事なので,それを覆すには弁護士が必要だが,攻め口の概略を予想すると,以下のようなところだろうか。
 まず,報告書末尾で,当該論文のコピペについて,
研究に携わる者が作成する論文等においては、決して許される行為でないと改めて肝に銘じるべきであるという点である。
 本件博士論文は、このような決して許されない行為により作成されたものである。
と断じている箇所である。では,決して許されない行為により作成された博士論文は,博士論文として許されるのだろうか。
「博士論文として許されない」なら,それが結論である。報告書の珍妙な因果関係論を崩すのも,その延長線上で簡単である。
 つぎに,不正の影響が小さいように見せるための,様々なテクニックを崩していくことだ。
 第1に,不適切な行為(意味不明な記載,論旨が不明瞭な記載,Tissue 誌論文の記載内容との整合性がない,論文の形式上の不備)と不正行為を問題箇所としてまとめて,前者に焦点を当てた論理を展開することで,後者を同列に置こうとしているところ。
 第2に,学位授与の実質的な意思決定が博士論文完成前におこなわれ,小保方氏が筆頭著者である論文が査読雑誌に掲載されたことが重視されていることを指摘し,学位授与への影響をこの時点での意思決定への影響として見ようとしているところ。
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