岩本康志のブログ

経済,財政の話題を折に触れて取り上げます。

諸事雑感

Yahoo! ブログから引っ越しました。

「先進理工学研究科における博士学位論文に関する調査委員会」調査報告について

 早稲田大学学位規則(第23条)にある学位取り消し要件「不正の方法により学位の授与を受けた事実が判明したとき」は,東京大学学位規則(第17条)のそれと同じである。というか,同じ要件をもたない大学を探す方が難しい。学位審査に関わる者は,この要件の運用には関心をもたざるを得ない。
 小保方晴子氏の博士論文に対する早稲田大学の調査委員会が,なぜ学位取り消しに当たらないと判断したのか。その論理構成は不可思議である。
 報告書概要の論理構成を3つのステップにまとめよう。

 まず,博士論文の問題箇所を認定する。 
(1) 著作権侵害行為であり、かつ創作者誤認惹起行為といえる箇所 --- 11箇所 
<主な箇所> 
・ 序章 
・ リファレンス(但し、過失) 
・ Fig. 10(但し、過失) 
(2) 意味不明な記載といえる箇所---2箇所 
(3) 論旨が不明瞭な記載といえる箇所---5箇所 
(4) Tissue誌論文の記載内容と整合性がない箇所---5箇所 
(5) 論文の形式上の不備がある箇所---3 箇所
 つぎに,論文の内容を検証する。 
「本件博士論文には,上記のとおり多数の問題箇所があり,内容の信憑性及び妥当性は著しく低い。そのため、仮に博士論文の審査体制等に重大な欠陥、不備がなければ、本件博士論文が博士論文として合格し、小保方氏に対して博士学位が授与されることは到底考えられなかった。」と認定する。
 そのつぎに,規定の学位取り消し要件に該当するかどうかを判断する。
「不正の方法」に該当する問題箇所は、序章の著作権侵害行為及び創作者誤認惹起行為など、6箇所と認定した。
「不正の方法」と「学位の授与」との間に因果関係(重大な影響を与えたこと)が必要と解釈すべきであるところ、本研究科・本専攻における学位授与及び博士論文合格決定にいたる過程の実態等を詳細に検討した上で、「上記問題箇所は学位授与へ一定の影響を与えているものの、重要な影響を与えたとはいえないため、因果関係がない。」と認定した。 

 以上から「本件博士論文に関して小保方氏が行った行為は、学位取り消しを定めた学位規則第23条の規定に該当しないと判断した。」というのが,報告書の結論である。
 審査体制に不備がなければ学位が授与されることはなかったと認定しながら,不正の存在が学位授与の結果に重要な影響を与えていない,というのが意味がわからない。因果関係は,原因の有無で結果が変わることで推定する。不正がなければ合格で,不正があれば不合格なら,因果関係がある。冒頭の20頁もの米国立衛生研究所のWebサイトからのコピペは相当なもので,それでも不合格にならないのか,というのが首をかしげるところである。

 しかし,別の読み方がある。「不正がなかったとしても不合格だった」ということなら,報告書の文章はすっきり読める。つまり,

審査体制に重大な欠陥,不備がなければ
 不正がなくても,他の問題箇所があるので不合格
 不正があれば,なおさら不合格
審査体制に重大な欠陥,不備があれば
 不正があってもなくても,合格

ということだったら,本来不合格となるべき論文が合格してしまったのは,審査体制の問題となる。そして,審査体制の問題を理由に学位を取り消す規定がない。
 報告書は,指導教員と論文審査の主査,(早稲田大学内の)副査に義務違反があるとして,その責任を追及している。コピペを人力ですべて発見するのは無理であり,教員に過大な義務を課しているようにも見えるが,コピペではない部分の審査を問題視しているのなら,それなりの理はある。

 このように文章はすっきり読めるのだが,それが調査委員会の考えだというのも,にわかに信じがたい。「不正がなかったとしても博士論文に値しない」と認定したかどうか明記されていないので,真意はつかめない。公開されているのは報告書概要なので,本体にはもう少し書いているのだろうか。追加の説明が欲しいところだ。
 かりにこのような論理構成をとったのだとしたら,それはそれで大きな問題をはらむが,真意がわからないところで敷衍してどれだけ意味があるかわからないので,これで措く。

FamaとShillerの対立点

(Twitterに書くには長すぎて,いつものブログよりは短いので,Facebookに書き込んだのですが,気が変わって諸事雑感として,こちらに転写します。)

 FamaとShillerの対立を煽る向きがあるようだが,将来の資産価格の収益率を予測できるか,についてFamaは短期で見るとできない,Shillerは長期で見るとできる,という実証をしたということで,どちらかが誤っているということではない。単純なモデルでは短期的に予測できなければ長期的にもできないので,FamaとShillerの発見を同時に説明するにはどうすればいいのかという大きな問題が,その後の資産価格の研究を動機づけた。...ということはノーベル財団の一般向け発表に,しっかり書かれている。

(参考)
Trendspotting in asset markets
http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/economic-sciences/laureates/2013/popular-economicsciences2013.pdf

(注)
 Facebookでは今のところ,知っている方も知らない方も友達にしていませんので,友達リクエストはしないでいただくようにお願いします。

ざんげしろと言われても困ります

 6月7日の『毎日新聞』夕刊掲載の浜田宏一エール大学名誉教授のインタビューが同紙のWebサイトで読める。その末尾(http://mainichi.jp/feature/news/20130607dde012020005000c4.html )で,記者の「壮大な実験と言えるアベノミクスが失敗に終わったら、どうしますか。」という質問に対し,浜田教授は「学者としての責任の取り方、それは公の場で自分の考えの誤りを認めることです。ただし、私たちが責任を問われるなら、今までリフレ政策に反対していた学者や経済評論家、デフレを放置した日銀幹部も総ざんげすべきです。経済を好転させられなかったのだから」と答えている。記事によると浜田教授は「このときばかりは語気を強めた。」そうだが,残念なことであるが浜田教授は大きな思い違いをされている。

「大胆な金融緩和」によって,大した費用も副作用もなしでデフレが脱却でき,なおかつ経済が好転すれば,誰もが大歓迎だ。そういう妙薬があったらいい,という願望は日本のデフレを考える経済学者は皆もっているが,実際にそういう妙薬が存在するかどうかは別の問題である。
 妙薬がなければ,妙薬があると言っていた人間だけが間違っている。
 妙薬を見つけられなければざんげしろ,という言い分は,妙薬が存在することが前提でなければ成立しない。妙薬はないと言っている人間にはとんだ言いがかりである。

 デフレ脱却の妙薬への願望が強すぎると,それは経済学(者)への失望と批判に転換する。妙薬がないことを喜んでいるのか,という批判まで経済学者が受けたりするが,そういうことではない。非伝統的金融政策は効果が弱く,短期間で物価を上昇させるだけの力はもたない(現状の文脈では,2年間で消費者物価上昇率を2%にすることはできない)。それでも時間をかけてデフレから脱却することを目指して,粘り強く金融緩和を継続しようと,これまでやってきた。
 簡単な道があると思いこんで,その道をいつまでも追い求めていては,結局は道を間違うことになる。

(参考)
「特集ワイド:続報真相 アベノミクスはピンチですか 「教祖」浜田宏一・内閣官房参与に問う」
http://mainichi.jp/feature/news/20130607dde012020005000c.html

首相選択選挙(その2)

 3年以上前の記事の続編。

 二大政党下での衆院選は政権選択選挙であると同時に,首相選択選挙でもある。衆院選で政権交代があれば,国民が選挙で現首相を退け,新首相を選んだことになる。それを常例とするならば,衆院選で選ばれていない野田佳彦氏は暫定的な首相である。したがって,野田氏,安倍晋三氏の両者にとって今回の選挙は初めて国民から選ばれる機会となる。
首相選択選挙」でも書いたことだが,投票日の夜にはテレビ各局が選挙開票特番を組み,大勢が決したところで党首がインタビューを受けるのが慣例である。衆院選で過半数の議席を得た政党の党首は,その瞬間に首相となることが確定する。ならば,選挙で選ばれた首相であることをアピールするべく,自らの主導で勝利演説をおこない,それを中継してもらってはどうだろうか。従来の慣習に流されるのは,自分が何の役割を担っているのかをわかっていないことをアピールしているようなものだ。

(関係する過去記事)
首相選択選挙

【政権選択選挙】政治改革,道半ば

 1994年に衆議院に小選挙区制を導入した政治改革の目的は,政権交代可能な二大政党制を作ることにあった。国民が選挙で政権・首相・政策を選択できる姿が目指され,実際に2009年の衆院選で政権交代が実現した。
 しかし,単に政権交代可能なだけではなく,政権担当能力のある二大政党が必要であった。誤算は民主党に政権担当能力がなかったことである。民主党は前回総選挙で詳細なマニフェストを提示することで政策選択選挙の実現に大いに貢献したが,そのなかの重要政策が軒並み実現できずにマニフェストは崩壊してしまった。組織の意思決定も満足にできない「決められない政治」からの修正の道筋も見えてこない。
 結果として政権担当能力では自民党が優れていたことが判明したとはいえ,2009年に下野したのは自民党の能力にも問題があったからだ。したがって,どこを改善してきたかが今回の総選挙では問われるのだが,それはできているだろうか。
 政権担当能力を判断する最初の材料は,マニフェストである。実現の道筋が見えないお題目ではなく,細部まで考えた実現性の高い提案を詰めたマニフェストを用意することが出発点である。今回,民主党と自民党が発表した公約は,とてもマニフェスト選挙の水準には達していない。
 政党が政権担当能力を高めること。これが現在で最も重要な課題であるが,そこに焦点が当たっていないことが大問題である。今回の総選挙は残念なことに,政治改革が目指す姿から見れば「1回休み」の状態となった。

(関係する過去記事)
【政権選択選挙】ブログの方針

マニフェスト選挙
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